特別と大事
「特別」と「大事」の違いについて考えている。当たり前だけれども、この二つはおんなじではない。言葉の体系というのは最節約的にできているもので、およそこの世の中に無駄な言葉はなく、全ての異なる言葉は少しずつ違う意味を持っている。このあたり、生態学で言うところの競争排除則を連想してしまう。これは、そもそもダーウィンが言いだした法則で、「自然界における地位を同じくする種は共存できない」というものだ。ぶっちゃけて言うと、同じ餌を食べ、同じ季節・時間に生息し、同じような場所に住む2種の生き物がいれば、そこには限られた資源を巡って競争が生じ、その結果どちらかがどちらかを駆逐してしまうという法則だ。言葉の体系でいうと、「自然界における地位」が「意味」に相当し、「種」が「言葉」に相当するのだろう。全く同じ意味ならば、訴求力の強い言葉の方が生き残る。というわけで、「特別」と「大事」には、違った意味がこめられているのは当たり前だ。そうでなかったら、この二つの言葉は存在していないはずだ。
閑話休題。そんなことが言いたかったのではない。僕が考えているのは、僕がこの二つの言葉を使うとき、どのような意味を込めているのだろうかということだ。人が言葉を使うとき、無意識で何も考えていないようで、実はほとんどの場合、偶然に選択しているわけではない。だから、優れた俳優はごくわずかなセリフでも豊穰なメッセージを伝えることができるのだ。
僕は鈍感な人間で、自分の気持ちがよくわからないことがままある。そもそも、自分に気持ちがあるのだろうかとさえ疑う日々だ。そういうときでも、自分が使った言葉を何度も何度も反すうして、どうしてそんな言葉を使ったのか考えていればそのうちわかった気になることがある。わかったからと言って、その言葉を発したときからは随分と時間が経っている。もう、手遅れで何の役にも立たないかもしれない。でも、その時は、ああそうかと思ってまた次の日を迎えればいいだけだ。多分、そういうことが生きるということだ。
また、前ふりが長くなってしまった。どうも飲みながらだと話がくどくなって困る。本論に入ろう。二つの違いだ。「特別」というと、英語でspecial。specialを類義語辞典で引いてみるとuniqueとある。唯一の意だ。唯一というのは、きれいな言葉のようでいて、本当はどうなのだろう。限界効用が幅を利かせるこの世界で、特異性に異を唱えるというのも勇気のいる行為だが、しかし、唯一などそれだけではどうでもいいことなのだ。今は1999年10月26日の23時58分。僕にとって唯一の時だ。いくらお金を積んでも泣いて頼んでも、この時間は二度と訪れない。そんなことを言っている間にもう59分だ。これは唯一の時だ。「特別」なのだ。それがどうした?
今度は「大事」。英語で言うと、、、辞書を引いてみるとvalueとある。そうか。この言葉はそんな主観的な言葉だったのか。価値。価値は心の在り方次第だ。限界効用なんて知ったことか。それが毎週毎週の繰り返しでありふれてしまったものでも、僕が大切だと思っているならそれでいいじゃないか。
別の言い方をすると心の在り方次第ということは、極めて現在的だということだ。女心と秋の空であって、男心と秋の空なのだから、結局人の心は移ろいやすいのだから「大事」は大切にしないといけない。でないと、あっという間にどこかへいってしまうものなのかもしれない。しかし、「特別」はなくならない。いつまでたっても、昨日の23時58分は、23時58分のままだ。ほっておいても大丈夫だ。正確な言い方じゃないな。「特別」は僕には手の出せない領域。僕とは別の地平に存在しているのだ。
こうして考えてみると、至極凡庸なことを思っているものだ。結局「大事」は感情の言葉、「特別」は論理の言葉。感情と論理、どちらを優先すべきかといえば感情に決まっている。
いや、違う。二つは背反しない。特別で大事。そういうことがどこかにあってもいいではないか。そのとき、僕は、どういう言葉を使うのだろう?そのとき、僕はそれに気づくだろうか?それとも、また気づかぬまま過ぎ去るのだろうか?
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