「自分で栄養を作ることができず、他の生物を摂取することで生活する生物」という答えは、もちろん正解で、これから私が考えることに比べたらはるかに明確で実用的かつ学問的で、中学校でこのように教わるのも宜ないところだ。しかし、これは上の方針に照らしていえば、失格である。そのうえ、私は、もし「固着性の貝やサンゴなども動物なのだから、お前それ研究しろ」といわれていたとしても、「僕は動物を研究したいのです」といって拒絶していただろう。この感覚がどのくらいポップかはわからないが、いずれにせよ私の中の動物は、上と違う何かのようなのだ。
素直に考えよう。動物とは動く物である。これは曖昧さではピカイチだが、飛行機やコンピューター制御の工作機械まで含まれてしまうので余りにナンだ。では、まず一歩譲って動物とは動く生物だとしよう。と、いっても木が風にそよいだり、プランクトンが水流に乗って分散したりといった受動的な動きはあまり面白くないので除くことにすれば、結局動物とは行動する生物ということだ。
「行動とは刺激に対する反応として観察される」というのは行動主義心理学の根幹であるが、刺激と反応は一本の線でつながっているものだけではなく、反応の多くは可塑的で、たくさんの刺激が同時に関与している。これは、刺激は知覚系を通じて情報としてもたらされ、生物はこの情報を処理して、環境についてなんらかの像を形成し、それに従って反応を返しているというイメージで考えてもいいだろう。さて、生物は進化を経てきている。当然ながら行動にも淘汰圧はかかり、我々は進化の結果生じた行動を観察している。進化とは端的に言って、ある環境により適応した個体が、あまり適応していない個体よりも数を増やすことだから、現在存在している生物が示す行動は、環境と相関しており、おおむね適応的と考えるのである。
しかし、動物の環境像はあくまで有限情報に基づく現実世界の近似に過ぎない。この現実と像とのずれが、動物が「誤った」行動を行うゆえんである。往々にして「誤った」行動は、動物の不完全さを表すものとして、さほど重要視されないものである。しかし、適応はあくまで比較概念なので、「誤った」行動なくしては「正しい」行動など、実はありえない。しかも、「誤った」行動を見ることで、私たちははじめて動物達の認識世界をかいま見ることができるのである。ソロモンの指輪が欲しければ、動物の不適応にこそ着目するべきなのである。
話が脱線したが、動物とは行動する生物だという定義は、少し明確すぎるような気もする。少し定義を再曖昧化させてみよう。今度は行動する物である。こうしてみると、これで現実上は何も問題がないことに気づく。今のところ、行動する非生物は存在しないから、これでいいのだ。と、いうわけで、私にとって動物とは、行動の事なのだ。
そういえば、いくら私が動物学教室に籍を置いて早7年といっても「動物って何?」と問う前に「生物って何?」と問うほうが客観的に見て自然なはずだ。なんなら、問いかけは曖昧なほうがいいと自分でいっている。しかし、この問いかけは「行動って何?」だったのだな、本当は。行動と、生物と、どちらが曖昧な言葉かといえば、むずかしいぞ。これは。
と、いいながら暑い夏の午後は過ぎていく。