科学的とはどのようなものかについては、いろいろな考え方があるだろうが、最近の私のお気に入りは、「科学的とは世界認識に対する願望の影響を極力排除しようとする姿勢のことを言う」というものである。逆に、自分の願望を根拠にして都合のいい結論を導きだすことは非科学的であるとする。それは例えば、
「アメリカは対テロ戦争に勝つ。なぜならアメリカは正義の国だからだ」とか
「首相の靖国神社参拝は違憲ではない。なぜなら首相は平和主義者だからだ」とか
「あなたはいい人よ。だって私はあなたのことが好きだもの」とか
「教授は偉い。なぜなら教授は偉いからだ」とか
「君に全面的に任せるよ。君ならうまくやってくれるだろう?」とか
「日本に狂牛病は上陸しない。なぜならそんなことになったら困るからだ」とか
のような物言いのことだ。強く願っていれば夢は叶う、などというのも非科学的姿勢の典型であって、このような言説はマスコミでも陳腐だが便利な言い回しとしてよく使われている。なるほど社会では科学的な人が少数派なわけである。
科学的になるためにはどうすればいいか。簡単な方法がある。願望を思いつくたびにそれをひっくり返すせばよい。つまり何でもかんでも悲観的に考え、世の中で言われることを疑ってかかればいい。
世の中には、このような態度を忌み嫌う人がいる。そのような人たちは、本当は科学的なものが大嫌いなのだが、自分が科学という錦の御旗と相いれない人間だとは信じたくない。そこで、彼らは「クラーイ」とか「世の中をもっと信頼しなくてはいけない」とか「協調心がない」とかいって科学的な人々を非難する。残念なことにこれらの攻撃は効果的である。科学的な人々は、世間を疑いながら社会を維持するための手だてとして、直接会話する相手の言葉に全幅の信頼を置くという傾向がある。そこで、善良で科学的な人たちは、非科学的な人々の言葉の裏に隠された攻撃性に気づかず、分断され孤立し片隅に追いやられることになる。
世に言う科学者の中にも非科学的な人物はたくさんいる。そして、この人たちは内に秘めた暗い怨念で、偶然接触を持ってしまった不幸な人々の生活を混乱に陥れ続ける。しかし、やられっぱなしでは癪である。なんとか分断攻勢をかいくぐり、同類を集め増やし、非科学的な態度を取っていると大手を振って歩けなくなるような世の中にしたいものだ。そのために、いったい何ができるだろうかと考える最近の日々である。道のりは長い。