いや、そんなことが言いたかったのではない。言いたかったのは、送り火はお盆で帰ってきた先祖の霊を見送る行事だということ。で、このお盆、僕は帰省中の友達と久しぶりに飲んだのでした。
彼は大学では建築を学んで、今は設計を仕事にしています。で、曰く、
「建築にはデザイン的な側面と工学的な側面があんねん。感覚的なものと、理論的なものというか。で、俺はこれまでずっと理論の積み重ねで設計してきたんやけど、最近は建築ってのは感覚なんや、このへんをこういうふうな感じで作れば、きっと倒れない建築ができるんや、って思うようになってん。でもな、俺らの仕事やと、間違って倒れてもうたら、人が死ぬやろ。だから、その感覚を理論で説明して確認しておかんととあかんのや」ということだそうです。僕は彼とはまったく畑の違う分野にいて、アリやクモの研究などして日々を送る極楽トンボなわけですが、実は彼の言うことは僕が研究しているときに感じていることとまったくおなじなので、びっくりしてしまいました。僕たち動物学者の研究スタイルとは、まず観察があります。対象の動物をずーっと見続けるのです。そうしていると、あるとき神の啓示が降りてくるわけです。「こういう状況でこの動物がこういう行動をするのは、これこれこういう理由があるに違いない!」このときは僕は既に確信しています。あとは、この確信に都合のいいような形のデータをとり、実験を行なって論理的に確認作業を行ないます。最後は論文にまとめればいいわけです。僕たちの場合は建築とは違って間違ったからといって、人が死ぬわけではないのでそのへんはお気楽です。かといって間違うとたいそう恥ずかしい思いをするので確認作業は厳しく行ないます。
ときどき世の中で見られる勘違いは、僕や友人のような科学技術系の人間は理屈に基づいて仕事をおこなっているというものです。まあ、中にはそんな人もいるのですが、僕の周りにいるたいがいの優秀な人は感覚が非常に優れています。でも、これもまた誤解して欲しくないのですが、感覚だけでもだめなのです。感覚を理屈でギリギリと確かめていくことをやっておかないと、感覚の暴走が起こります。感覚が間違っている可能性は常にあって、僕も何度か経験がありますから。
もう一つ誤解して欲しくない点は、感覚は決して理屈に先行しているわけではないということです。僕の友人が感覚を語れるようになったのは、それまでに理論をずっと追及してきた経験があるからで、僕にしてもある動物を調べはじめたまったくの最初から感覚を持てるわけではないのです。ですから、結局のところ、理屈と感覚はお互いを補佐するものなのです。
僕も、研究をはじめたころは理論が重要であるという勘違いをしていました。でも、仕事をずっと続けていくうえで、上のようなことがわかってきて、これは僕の悪い癖なのですが、ここから極度の一般化を行なってしまい「人はすべからく心の中に2つの矛盾した性質を飼っていなくてはいけなくて、すべてはその2つのバランスの上で行われなければならないんだ」などという人生訓を引きだすようになりました。で、今回友人がおんなじようなことを話しているのを聞いて、とてもうれしくなったのです。どんな仕事でもおおもとに流れるエッセンスの部分ってのはおんなじなのかもしれません。僕は自分が変わった仕事に就いてしまったために、他の人と話が合わなくなっちゃうんじゃないかってひそかに心配していたのですが、杞憂だったのかもしれないって幸せに赤ワインなど飲み続けてしまいました。