よろず経済問題解決します
そごうに対する救済策が決まって、預金保険機構もそごう再建スキームを崩さないために、一部の債権を放棄することになったという。その損失は最終的に国民の負担になるわけだが、一私企業の救済のためのコストをすべての人に広く薄く受け持たせるための理由が、新聞を読むと書いてある。曰く「そごうが倒産するとすべての債券が回収不能になる。それよりは救済を行えば一部の債権は回収できるので、国民にかかるコストはその方が少なくなる」とのことである。
殺してしまうよりは、生かさず殺さずで絞り取れるだけ絞り取ろうというやりかたに、一定の合理性があるのは確かだ。ただ、それは生き続けてくれた場合。注射の効果がはっきりしないのなら、目先の利益を確実に確保するほうがいい場合もある。まあ、これは将来予測に関することで、そのことをどうこう言えるほどの知識がこちらにあるわけではない。しかし、私は思うのだ。この問題は我々が払う経済的コストの大小だけで判断を行っていいのだろうか?
今回の救済策は、とどのつまり経済秩序を社会秩序に優先させたということ。言い換えれば、お金とモラルを計りにかけてお金の方が大事であるという価値判断を行ったということなのだ。私が腹立たしいのは、私たちの税金が無駄に使われることではない。私たちがこのような社会に生きていることだ。
もし、一私企業が倒産することで我々が銀行を通じて貸し付けていたお金が焦げ付いたとしても、それは放漫な経営を行った企業を罰するためのコストと考えればよいのだ。我々は警察や裁判所、監獄などを維持するためにコストを払っている。これと同じようなものではないか。
それにしても、今回の問題は株式会社、ひいては投資というシステムの持つ矛盾をよく表しているように思う。しょせん経営者にとっては会社の金は人の金なのだ。経済合理性だけから考えたら、そりゃあ、失っても痛くはない。で、悪辣な経営者に対して、その成した迷惑に見合うだけの責任を負わせることは、ほとんど無理な相談だ。よくて、在任中にその会社を潰して不名誉を負わせることくらいだ。なので、経営にはモラルが必要だが、そんなものを持ち合わせる人間は会社という官僚機構を上手には泳げないときたもんだ。
いっそ、それなら徳政令を出してしまえ。そうしてすべての借金を帳消しにするのだ。財政赤字も解決だ。ゼネコンも金融機関も百貨店も中小企業もぜーんぶぜーんぶ安泰だ。誰が困るんだ?どうせ最終的に国民の負担になるんでしょ。そうしてすべてのシステムが崩壊した後から、もういっぺんやり直すことにすれば、しばらくは投資なんてバカなことほとんどの人は怖くて出来なくなるでしょう。その方がましなんじゃない?
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