なまじこんなことを知っていると、この考え方を、進化を考えることが必ずしも適当でないスケールの現象に適用しようとする輩が出現する。つまり、誰かに子供ができたときに「おお、これで適応度が1上がった」とか言ってしまうという。
思えば、こういう発想は、1は1である、ということを暗黙の前提にしているのである。もちろん1は1である。しかし、ということは1+1=2であって、それなら無限といえるような大きな数を考えれば1は無限に取るに足らない部分ということになる。そう考えると、これはとんでもない発想である。今の私には到底承知できない。1は全部じゃないの? そんなわけで私も人の親になったのだが、親というものはどうも子供に対してあれこれ心配するもので、子供が「うるさいなあ、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」なんて言うものなら、「お前にも子供ができれば、親の気持ちがわかる」とボヤくようである。しかし、子供が親の気持ちがわからないのは幸いなのだ。親にしてみれば、自分の幸せが全面的に子供に依存することになるわけで、ある意味人質をとられているのと似たようなもの。自分の幸せを自分で制御できなくなってしまう。これは、この側面だけ考えれば非常に不自由なことであって、なんでも思いのままになる生活を送っている現代人がこのことを知ってしまえば、子供を産むことを躊躇する恐れ大である。
まあ、それはいいとして、子供ができるというのは曰く形容しがたいことである。ちょうど生まれる二週間ほど前に、出身研究室の大先輩に学会でたまたま会って、「今度子供ができるんですよ」といったら「子供ができると人生観変わるよ」と言われたものだが、今はその言葉がわかるような気もするし、やっぱりわからないような気もする。子供ができるのは本当に素晴らしいことだと、心の一部は叫びまわっている。でも、なんていうのか、不安も倍増なのだ。この子は幸せに育つだろうか。私は父親の努めをちゃんと果たせるのだろうか。
しかし、本当のところはお祈りをするしかできない。もう、自分の手を離れてしまっているのだ。幸せになりますように。家族仲良く暮らせますように。それから、優しい人に育ちますように。
以前に、恋愛の本質は自分が自分でなくなることだという認識に到った。子供を持つこともどうも同じであるようだ。自分とよく似た赤ん坊の顔を見ていると、自分の領域が曖昧になってくる。自分は連綿と続く血がとった一つの形態に過ぎないのかもしれない。大いなる存在の連鎖の一つの鎖。そのうちに、この子もその鎖に連なっていることを理解してくれるようになってくれればうれしいことだと思う。