というわけで、ここ三年ばかり毎日楽しく日経生活なのだが、何とかも百回言えば本当になるということで、最近まで私も日本はどのようにこのデフレ状況に対応すべきかで頭がいっぱいだったのである。そうしているうちに、「利子というのは経済成長の分け前であり、インフレは経済成長に対する期待から生み出される」ことがわかってきた。さらに「経済成長とは効率の上昇を除けば、経済社会の外にあった価値を内部に取り込むことによってのみ達成される」と理解できるようになったのである。これは私にとってちょっとした天啓であって、すなわちこれは、永続的に利子を保証するためには、外部から常に価値を取り込みつづけなければならないということになるわけで、それって環境の世紀とそりが合わんのではないかと思うようになったのである。別の言い方をすると、環境の世紀のテーマは循環社会の構築であるわけで、これからの社会は物質的には既に使っているものを完全にリサイクルすることで経済社会の外からは収奪することがないようにし、さらにエネルギー的には究極的には唯一の無尽蔵エネルギーである太陽エネルギーだけで生活していかなくてはならないということで、このような社会では経済成長はほとんど見込めないということになる。
そして、これまで経済を回転させるためにだけ行っていた不必要な生産が行われなくなるならば、デフレは必然だということになる。日経であれだけ目の敵にされているデフレだが、環境のことを考えればもろ手を上げて歓迎すべきことなのではなかろうかと最近思うようになって、気が楽になったのである。
では、なぜ日経はデフレを目の敵にするのであろうか?答えは簡単である。世の中にはインフレから利益を得る人々がたくさんいて、その人たちが日経の主な購読層だからである。この人たちは、多くの人々が今日百円で買えるものは明日も変わらず百円であると考えていることを利用して利益を得ている。インフレの世界では、今日の百円は明日の百円ではない。99.999円くらいになっている。にもかかわらず多くの人は、それに百円を払う。ということは、そこに0.001円の差益が発生するわけだ。これを上手く利用すれば、お金のことにかかずりあう暇のない多くの生活者から、広く薄く掠め取ることで儲けることができる。で、逆に今はデフレであるがゆえに、鈍感な生活者を利用するこの利益モデルは機能しなくなっているのである。 というわけで、最近はデフレ万歳という気持ちになっているわけだが、マクロで見て望ましいことでも、ミクロで見れば悲劇というのはよくあることだ。インフレのときに自分で稼いだ分だけで生きていた人は、本来デフレ時代には幸せに暮らせるはずなのだが、そうではないこともしばしばである。いくら自分は正直に生きていたとしても、勤めていた会社がインフレ時に他からのピンはねだけで稼いでいた場合現在は青息吐息のはずで、リストラをくらってしまうかもしれないし、ひょっとしたら勤め先自体が立ち行かなくなることだってありえる。では、どうすれば上のような悲劇を防げるのだろうか。
答えは組織から独立することである。他人との繋がりでがんじがらめになっている状態から脱却し、自分の行いの顛末を自分で処理できる範囲に限ってしまえばよいのだ。そうすれば、自分が過去に間違ったことさえしていなければ、デフレでも意に介せず生きていけるはずだ。そしてもう一つ、生産することだ。
先日亡くなった加藤登紀子のだんなさんが、生前に「セーフティーネットだといっているが、失業対策として農業に従事させ、自分の食い扶持くらいは自分で作らせればよい」と言っていたと、どこかで読んだ。これはまさにそのとおりであって、失業を苦にして自殺するくらいなら経済社会との接続を絶って自給自足生活をするほうがどれほど有益なことか、とそのとき思った。しかし、後から考えて、このことはただ後ろ向きな選択という意味だけではないのかもしれないと思うようになった。
完全な循環に基づく定常社会は、エネルギーは外部から供給されるものの、基本的には自給社会ということである。そして、その社会は、必ずしも地球規模のものである必要はない。現在の文明水準を維持することができ、かつ自給可能な社会のために最低限どのくらいの規模(人口規模か?面積か?それとも農業生産高か?)が必要かはわからないが、おそらく今の日本よりも小さいのではなかろうかと、予想している。そのような社会を、経済社会との接続を絶った人たちを核にして作ることができれば、それは環境時代にふさわしい社会変革ということになるのではないか。