で、最近ともだちから、「よく決断が出来たなあ。えらい」と言われる。自慢じゃあないが、あたしゃ、優柔不断のゆうと呼ばれて二十余年。実を言うと、決断らしい決断はしていないというのが実感だ。もし、大いなる宇宙の流れが目に見えるのならば、この半年、わたしがブラックホールに吸い込まれる宇宙船のように重力の井戸に落ちていったのがわかるだろう。抗っても意味がないなら、流されてしまうべし。
こう、化学反応でもより状態エネルギーの少ない方向へ進むものじゃないですか。トランターのハリセルダンが歴史心理学で言いたかったことは、「人間も多数の集団なら熱力学の法則で扱うことが出来る」なわけで、それなら、人同士の関係も化学反応に擬すことが出来るというものです。
結婚と恋愛を同じ軸の上に乗せてしまっているのが戦後民主主義的恋愛至上主義の一つの特徴で、そういうことが間違っているくらいは、ちょっとでも時代感覚に敏感であれば自明なのです。恋なんてしょせん、大脳生理学的に言うと、一時的に続く神経の特殊な興奮状態に過ぎないのだし、行動生態学的に言えば、交尾行動を引き起こして適応度をあげるためのメカニズムなわけなのだから、こんなものに結婚という人生の一大事がひきずられてはたまらないのです。世の中には好きかどうかなんて感情の問題よりもずっと大切なことがあるのですよ。
思えば、人間一人一人は割れたお皿のかけら。決してそれだけじゃ完全じゃない。しかも、割れ目の部分はぎざぎざしていて、下手に扱うと傷がつけられたりしてしまう。それが、不思議なことに、どういうわけか割れ目の部分がぴったり合う他のかけらが見つかることがあって、すると二つのかけらで一つの丸いお皿ができ上がる。ほら、ぎざぎざしているところは人には当たらなくなるし、物を乗せて役に立つようにもなるでしょ。
結婚って言うのは、そういうことなんではないかと思うのです。だから、決断できるようなものとは、ちょっと違う。ぎざぎざがあうという現実の前に、かけらの意思なんて瑣末なことです。だって、それは現実だけれども不思議以外に形容しようもない。化学的に安定しちゃったら、そこから脱出するには大量の反応エネルギーが必要だけど、そのために頑迷という燃料を使う気もない。荒れ狂う感情よりも、自分の中の空虚を埋めてくれる喜びの方がどれほど大切なことか。
それにしても、人生はなんて不思議なものなのだろうか。
そもそも一人では、自分が割れたお皿であることにも気がつかなかっただろうし。このことだけでも、一生分の感謝で足りないくらいだと思うのだ。自分のことを理解することは、人生の主要な目標の一つではないか。次は、他人を理解することだが、幸いこれから時間はたっぷりある。そのうちできるようになるだろうと楽観しているが、これもかけらにできたかどうか疑わしいところだ。
まあ、そんなわけで、人生のある一時期を終えようとしているわけだが、名残惜しくないわけじゃあない。どんなものであれ、過ぎ去って二度と戻らないことがわかっていれば、それは惜しいものだ。それは、この先がどうなるかってこととは関係ない。でも、いつまでもひとところに留まっているわけにもいかないし。後の人たちのために、ニッチを譲り渡さなきゃいけないし、流れを絶やさないために他にもやらなきゃいけないことがあるしな。さてさて。