とりみきと秘密の花園2
「とりみき」という漫画家を御存知だろうか?チャンピオンでデビューしたにも関らず、今ではすっかりマイナーになってしまい、ガロやSFマガジン等でその名を見かけるだけになってしまった通好みの漫画家である。最盛期はかの平凡パンチで「愛のさかあがり」という連載を持ち、赤瀬川源平や南伸坊らと路上観察学会の設立メンバーにもなったことまである漫画家である。
僕は最近、「秘密の花園2」というページを作ったのだが、そのときいかに自分が「とりみき」の影響を受けているか思い知ることとなった。「とりみき」の芸風は、一言でいえば「ずらし」である。彼は常識を踏まえた上で、常識を「少し」ずらすのである。この「少し」というのが実はとっても重要である。つまり、ストライクゾーンからボール一個分外せば、バッターは空振りしてくれるが、キャッチャーもとれないようなボールだと、番場番のように四球連発なのである。もう少し具体的にいうと、たけしよりダウンタウン、ダウンタウンより志村けんである(全然具体的ではないが)。
生き物の多くは有性生殖をする。ネオダーウィニズム的な立場でいうと、生き物の究極の目的は自分の複製をできるだけ多く残すかということだから、有性生殖というのはおかしな話しである。(男の立場で話すけれども)自分の子供は自分と同じではなく、嫁さんとも似ているのである。これにはちゃんと生物学的な立場から色々説明がされていて、(例えば、パラサイトに対する耐性とか、ホモ接合による有害遺伝子の発現とか)僕はそのあたりに異存を差し挟むほど気合の入った人間ではない。とにかく現実は、我々は自分の複製を残すのではなく、自分と全く同じではないが、自分と一部同じである生き物を残すということである。子供を産むことで、自分は「少しずれる」のである。多くの場合、自分の子供は喜びであろう。これは、目の前にあるものが自分と同じものを持っていて、しかも自分とは全く同じではない。そういうものに惹かれてしまうという事かもしれない。自分の趣味指向に生物学的意味付けがあるかもしれないと夢想するのは自虐的ユーモアにすぎないのだが。
こうして惹かれる「ずらし」は無目的、無内容である。とにもかくにも「ずれて」いればいい。後は風に聞いとくれ。志村けんを見てみればよくわかる。「変なおじさん」だって面白い時と面白くないときの差は激しかった。これはとりあえず「ずらし」てみて、後は見た人に判断してもらおうということだ。この姿勢があればこそ、見るものにしてみれば大きな驚きを産み、喜べたというわけだ。
「ずらし」にとって重要なことは内容ではなく、ずれた距離である。これに関する彼の漫画の大きな特徴は「間」である。「間」というのは、相手の呼吸をはかる際に生じる。「ずらし」の作家であるとりみきが自分の芸を披歴するためには読者にある程度の均質性を要求する。なぜなら彼の想定する常識に読者がついてこれなければ「ずらし」は効力を失うからだ。現実は読者はそれほど均質ではない(これが、とりみきがある程度にしかメジャーになれない原因だと思う)。しかし、彼は「間」をとることで、読者の常識を調整して可能なかぎり均質性を保つのである。とりみきが無音のコマを駆使して見事な「間」を作りだす様はもはや芸術である。
僕の「秘密の花園2」というコーナーはやはり「ずらし」の系列にあるものだろう。しかし、インターネットで「ずらし」をするためには一つ大きな問題がある。それは回線速度のばらつきである。このため「ずらし」にとって重要である「間」の調整に非常に苦労するのである。今回は一個一個のファイルを極力軽くすることで間のばらつきを低く押さえようとしたのだが、なかなか思うようには行かないものだ。
ともかく、僕のくだらない冗談よりも「とりみき」の漫画ははるかに面白い。是非多くの人に観賞してもらいたいものである。ところで、ずっと言い忘れてたけど「とりみき」の描く漫画はギャグ漫画だからね。気楽に読めることは請け合いである。ただマイナーゆえ手に入れるのに少々苦労するかもしれないが。
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