さて、長い前ふりもこのあたりにして、そろそろ本論に入らなくては。我々は社会的存在ですから、値切り交渉に限らず複数の人間が共同でお互いのためになることを実現しようという状況にしばしば直面するわけです。例えば、夫婦で家事分担することにしましょうよ。新婚さんなら、「あら、あなた、座ってて、あたしが洗い物するから」「いいよ、君が料理したんだから、僕が片づける番だよ」「んー、や・さ・し・いぃ・」なんて、アホな会話の一つもするところでしょうけど、それで世の中回るようなら、僕はとっくに結婚してます。冷静に考えたら、どうせいつかは片づけなくてはならない食器なのですから「洗わなければいけないと感じたら片づける」と決めておけば、洗い物が台所にたまってハエがたかるという事態は避けられるはず。この状況はダンナにとっても、嫁にとってもありがたい事態です。もちろん、人によってどこまで汚さに耐えられるかには個人差がありますから、大概の場合はどちらかが高い頻度で片付けものをやっているのが現実でしょう。こう考えると、家庭内の役割分業は、女性の方が家庭の中の汚れにより敏感だからと言えるのかもしれません。
しかし、本当にそうでしょうか?世のダンナ方、「ああ。台所が汚れているなあ。でも面倒くさいからほっとけば、そのうち嫁が片づけてくれるだろう」ってこれっぽっちも思っていないと断言できますか?
どうも「洗わなければいけないと感じたら片づける」のは、正しい行動ルールではないようなのです。こういう相手の反応と無関係な行動ルールを採用していると、相手はどんどんと図に乗って怠けはじめます。そうなると、相手の自立を妨げることになってしまい、皿洗いをしたことのない大企業の中間管理職や、マークシートしか解けないマザコン青年をたくさん生み出してしまうことにつながるのでしょう。
じゃあ、どういう行動ルールがいいかというと、「こないだは相手が片づけてくれたから、こんどはこっちが片づけようか」というルールです。こうしておけば、相手が無限に依存してくるのを防ぐことができます。だって、依存してたらハエがたかるどころの騒ぎじゃなくなりますもの。どちらかが、このルールを採用すると、その相方も同じルールを採用しなくてはならなくなります。ここで、お互いがお互いの反応を見て行動を決めると言う状態が成立します。おお、うるわしきコミュニケーション。
このようなコミュニケーションは性悪説に立脚しています。それに対して、最初のルールは性善説に立脚しているのです。今の日本がおかしくなったのは、性善説に基づく夢見がちな人が巷に溢れかえってしまったからだと、僕なんか思っています。もう一つ、このようなコミュニケーションルールを取っていると、「こないだはあたしが片付けたんやから、今度はあんたの番よ」「今日は疲れてるねん。かんべんしてやあ」という無言のやりとりがなされる間、食器はかたづかないままになります。なので、嫁さんが食事が終わったらすぐに洗い物をするときと比べて、衛生状態が悪化するわけで、家庭内の効率が落ちてしまいます。効率をすべてに優先させた戦後日本の社会が、このようなルールを採用していたのは、合目的的だったのでしょうかしらん。
が、しかし、今の世の中を見ていると、今こそコミュニケーションルールの復権を唱えたくなります。相手のことを少しは疑ってかかりましょうよ。絶対その方が家庭が楽しくなるはずですよ。
なぜ、Wさんのことを僕が気に入っていたかというと、そのときそのときの交渉時の流れ次第で、ついつい最適な値段よりも安い値段にしてくれたからです。大げさに言えば、僕は、そうやっているときに、Wさんの反応から自分の存在確認をしていたわけです。でも、Wさんはおかげで随分と上司からおこられていたそうですけれども。ああ、またWさん研究室に遊びに来てくれないかなあ。