様式芸術としての科学論文
秋が深まって山からちらほらと雪の便りが届くころになると、理系の研究室ではあちこちで戦争が始まります。学部の4回生、修士課程の2回生、そして博士課程の3回生が年度末無事に学生生活の区切りをつけるために論文を書かなくてはならないからです。僕が今いる動物生態学の研究室では今年は全部で6人の論文書きを抱えています。みんな、それぞれに苦労しているようです。
僕が思うに、彼らは皆、科学というものを誤解しているのです。科学とは真実を明らかにする行為のことではないのです。科学は世界を理解しようとする方法の一つに過ぎないので、科学から得られた結論が真実である保証はどこにもありません。しかし科学を科学たらしめているのは、その方法論にこそあるのです。なんとなれば、理屈さえ通っていれば「カラスは白い」という結論を導きだしても評価されるのが科学というものなのです。
さて、ここのところがちゃんとわかっていないと、どういうことになるでしょう。人は真実がわかったと思い込んだ時点で科学の目的を達成したと思うわけです。この時点で、彼らはこの後の活動の動機を失うわけで、真実がわかったと思い込む前に論文を書き上げているということは普通ないですから、論文書きはいわば帳尻合わせ、消化試合のようなものに過ぎなくなります。当然出来てくる論文がいいものになるはずもありません。それでも、その論文が本当に真実を明らかにしていればまだ価値はあろうというものですが、往々にして彼らが思い込んだ真実しかこちらに伝えてくれない場合があるわけです。こういう論文は外部の目から見れば根拠のない空文、宗教の教義文となんら変わるところはなくなるわけです。こうなると、周りの者は頭を抱えてしまい、厳しい教官だと論文を不合格にしてしまうかもしれません。ですから、科学の目的を誤解したままに論文を書こうとしてもロクな事はないわけです。
で、科学の目的とは何かということになりますが、これは、自分が思い込んだ真実に客観性の衣をまとわせることにあります。ここに科学の本質が方法論にあるということの重要性があります。客観性とは、大勢が認めることから生じるものですから、自分が思い込んだ真実を人に伝え、認めてもらう必要があります。その手段が論文というわけです。ですから、論文を書く行為を行って初めて目的が達せられるのです。観察を行ったり実験を行って客観的なデータをとることは目的ではなく、単に手段だということです。
この論文書きというものにも方法論が存在します。そもそも科学論文にはかっちりとした形式があります。どんなに書きたいことがあって、それが事実であったとしても、書きたいように書いては論文とは見なされません。科学とはなんて不自由なものなのでしょう。まず最初に「導入」があります。ここでは、まず、現在までの研究の流れを概括し、その中で現在重要とされている問題を指摘します。そして、その問題の答えになるだろう仮説をいくつか提示します。次に「方法」がきます。ここでは、上に挙げた仮説の当否を判定することの出来る観察もしくは実験方法を具体的かつ詳細に述べます。そして、その結果を次の「結果」に述べるわけです。多くの初心者はここで間違いを犯します。すなわち、この「結果」こそが論文の科学的成果だとするわけです。ところが、科学論文ではこの後に「議論」がきます。ここでは、「結果」に基づき「導入」で述べた仮説の当否を検討するわけです。そして、今回の研究で明らかにできなかったことを指摘して論文を終えます。
この手続きさえ踏んでいれば、どんなものでも論文になります。例えば、どうして男の子は女の子と交尾する際にあの手この手で前戯を行うのだろうという問いがあったとします。子孫を残すためならさっさと交尾して精子を相手に渡してしまえばいいはずで、相手を喜ばすなど無駄以外の何物でもありません。さて、この問いに答えるために精子競争仮説というものを考えたとします。これは、婚姻システムが乱婚状態で、オスにとってみれば交尾が即繁殖に結びつかない種では、オスの間にメスを受精させることを巡る競争が生じるという考え方で、トンボなどで見られています。ここまでを「導入」で述べます。そして、次に「方法」ですが、ここでは子供を欲しがっている何組かの夫婦に協力してもらい、彼らに前戯の時間を変えて交尾してもらい、その後の妊娠率を調べるという記述をすればよいでしょう。そして「結果」で、測定した妊娠率を提示し、もし前戯が長いほうが妊娠率が高いという結果を得れば、「議論」で僕たちが女の子を喜ばすのは精子競争のためなのだと一言添えれば一丁上がりです。どうです、カラスは白いでしょう?
この例でわかるように科学論文では手続きさえしっかりと踏んでいれば内容はどんなものでもよいわけです。これが例えば宗教であれば、神の存在を否定する論文は書けないでしょう。そう考えれば科学とはなんて自由なんでしょう。ここで、科学の自由さと不自由さを思うとき、僕はどうしても俳句を連想してしまいます。5・7・5に固定された字数、必ず季語を読み込まなくてはいけない等、最も制約の多い歌の形である俳句は立派な様式芸術として成立していると思うのですが、では、ひょっとすると、科学論文も実は様式芸術として存立しうるのではないでしょうか。そうすると、先の例で挙げた人の精子競争の論文はおそらく人に対する絶望的なまでの憎しみを表現したものであるでしょう。これではあんまり芸術として美しいものではないと考える向きには例えば森高千里に対する愛を歌い上げた論文(もちろん、表面上はそんなことはおくびにも出さないのですよ。でないと権威ある教授連に認められないじゃないですか)を書くことも可能かもしれないのです。そう考えれば科学論文を書くことも、ちょっと楽しいものかも知れないですね。
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