まあ、26年も先生と接し続けていれば、好きな先生もいれば嫌いな先生もいて、いろんな先生を思い出すわけです。で、どんな先生が好きだったかというと、これは単純な話で、先生らしく振る舞わない先生でした。例えば、中学の美術の先生は、どうも本当は先生になりたかったわけではなく、赴任直後は食うために一時的に先生をやっているということを公言する人でした。それが、一年もしないうちにどうも先生稼業が面白くなってきたらしく、気がついたら熱血先生になっている。僕は気質的に熱血な人とは合わないのですが、その人だけは、ルーツを知っているので熱血なのも可愛く見えて好きでした。
それから、中学の音楽の先生もひねくれた女性で、大阪の中学では私立高校の受験前に先生達が受験生の内申書を持って合格可能性の打診に行くのですが、その先生、僕のデータを持っていったそうなんです。ところが、その高校はうちの中学からはこれまで受験実績がなく、向こうの担当者から、どうもバカにされたらしい。「あんたんとこの学校なんて聞いたことないなあ。ほんまにこの内申書信用できるのぉ?」と。で、帰ってきて開口一番、「中田、あの学校腹たつから絶対受かれ!見返してやる!!」と。いやあ、生徒の事より自分の感情を優先することを隠しもしない。この先生は信頼できるなと思ったものです。
高校の物理の先生は、遠足に行った先で「わしゃ、もう疲れたから先に帰るわ、ごゆっくり」って消えちゃいました。けっこう、呆気にとられたものです。友人はお酒を持ってきていて、どうやって隠そうかということを遠足に行く前から随分考えていたのですが、徒労でした。一本取られた感じです。なんとなく、学校の中のことしか知らないこちらの世界の狭さを教えられた感じがします。学校の中のルールなんてたいしたことないんだぞって。
で、26年間の中で一番長い間居た場所は大学の研究室なのですが、ここには変わった風習があって、それは「教官を先生と呼んではいけない」というものでした。まだその当時は、うちの研究室に入るということは即研究者になることを意味していました。そして研究者になるためには、すべてを自分の頭で考え自分の責任の元で行うという自律性が最も大事な要素であり、誰かを先生と呼ぶことは自律性の確立の妨げになるという考え方のようでした。確かに、先生と呼ばないことで、こちらは教官に対して対等に接しても構わないんじゃないか、っていう雰囲気に知らず知らずになっていたので、効果は十分でした。今やその当時の先生はほとんど近くにおられなくなってしまったけれども、今の僕があるのは、その当時の先生達のおかげだなどと殊勝なことを思う春の夜なわけです。
もちろんいい人ばかりじゃない。権威をふりかざして、他人を支配し隷従させようとする人も、ときどき現れる。思うに、こういう人たちは、結局のところ他者を他者として認識できないのではないか。この手の人たちに共通する性質は他者の同化。なんとかして他者を自分の枠の中に取り込んでしまいたいという欲求が根底にあるような気がする。この手の人たちは、自分を変形させることは全くない。これはある意味でコミュニケーションが全く不可能ということであり、ある意味では生きていないということと同じである。
まあ、こうして思い出してみると、一年目の僕としても、この先どのようにしてこの稼業をやっていけばいいか、だいたいの目安になる。好きだった先生達への恩返しかたがた、まあ、ちょっとやってみるかと思っているところだ。でも、やっぱり、自分が先生と呼ばれるのは、なんとかならんかなあ。ねえ。やめましょうよ、これって悪習ですよ。