なので、僕のようにあまりそのへんの機微に興味を持てない口は、性選択の話が続く前半は退屈だなあと思いながら話を聞いていたわけです。特に流行りの研究というのは、大概が同じストーリーのレプリケートに過ぎないことが多く、聞いてびっくりになかなかならない。やはり学会で人の話を聞くのは頓狂一番ですからね。それから、私はヒアリング能力にあまり自信がなく、鳥で性の問題という、僕の専門ど真ん中ではない話題には苦戦させられました。国際学会に参加すると、いつも「もっと英語力つけなくちゃあ」と思うのですが、実行に移された試しはない。あたしもいっぱしのダメ人間です。
とはいえ、やはり学会は役に立つもの。今回、僕はクモのお引っ越しの話をしに行ったのですが、社会性昆虫学会という対象の狭い学会でアリの話をするよりもずっと受けていたのが予想外でした。ひょっとして、クモはみんな気にしてるんじゃないか?と前から薄々思っていたのですが、ますますその意を強くしました。それに会いたかったオーストラリアのネエチャンはきさくな人で、手に入らなかった別刷りもらったりして、帰りの飛行機まで一緒になったりして、僕としては学会後半は充実していましたね。後半はときどき面白い話もあったし。例えば、ある虫は、オスがメスと交尾した後にそのメスが他のオスと交尾しないように交尾器の中を破壊していくんですぜ。で、メスはそれがいやだから交尾の最中に後ろ足でオスをえいえいって蹴ってるらしいんですよ。そうしたら、少しは破壊の程度が小さいらしい。ああ、おそろしや。
今回の学会のディナーはチューリッヒを一望のもとにすることの出来る山の上で夜景を見ながらバーベキュー。夕方登ってみたら、アリの婚姻飛行の真っ最中。そこかしこで交尾していました。バーベキューは、おいしかったとはあんまりいえなかったですなあ。
さて、国際学会のお楽しみといえば、通常、期間の中日にあるエクスカーションデイ、いうなれば観光の日です。ところが、生き馬の目を抜く行動生態学の世界では、そんな余裕を作る暇はありません。5日間の期間中、わずか半日しかフリータイムがないという。なのに、午前10時と午後3時には40分のお茶の時間、ランチには2時間取っているのだからヨーロッパ人は優雅なのかなんなのか。あげく研究発表が終わってからサッカーをして、その後深夜までパーティーですからねえ。まあ、そんなわけでチューリッヒからどこかまで足を伸ばして、というわけには行きませんでした。残念。でも、チューリッヒ自体は堪能いたしました。
さすがチューリッヒは第二次大戦の戦火をくらっていないだけのことはあります。街はきれいです。特に表通りから少し入ったところの町並みの小奇麗さは特筆すべきです。地震も台風もない国は、いっぺん石で家を建ててしまえば内装外装を手入れするだけで何百年も暮らしていけるんだなあ、と、このときはうらやましさで一杯でした。この日は高須先生に会う前にChopChopというあやしい中華料理屋で晩ご飯を食べていたのですが、高須先生と三人でもう一度パスタまで食べたら、こいつがおいしかったのなんの、いやー、チューリッヒはいい街です。ここで、街で見つけた小洒落た物の写真を二つ。
学会の間中は嫁さんとは昼間は別行動で、夕方合流して一緒に晩ご飯を食べるというパターンが多かったのです。学会初日は高須先生とMペ(森ペって書いてもほとんど変わらん)さんと4人で食べました。高須先生は中華に行きたがっていましたが、我々夫婦は既に食べているので却下(しかしチューリッヒには中華料理屋が少ない。こんなに探すのに苦労するとは思わなかった。結局3軒しか見つけられなかった)。会議は踊った結果(といっても庶民的なレストランが並ぶ、1kmにもならない通り沿いでのことですが。晩飯はほとんどここで食べました)、スペイン料理に決めて店に入ったら、K教授、H教授夫妻を中心とした日本人軍団が。学会参加日本人のほぼ2/3がそこにいたわけで、バスク解放戦線とかが爆弾テロでも仕掛けようものなら、日本の行動生態学は立ち直れなくなるような被害を。。。で、またここがおいしかったんですよ。どうしようかと思った。この日お昼に大学構内のレストランで食べたランチもおいしかったし。いいですよ、スイスは。ドイツ語圏と言えどもフランスやイタリアの文化が混ざっているから、食べ物がおいしくて。
この旅行中いつでも嫁さんと晩ご飯を食べていたわけではなく、一日完全に別行動の日もありました。そのときはH教授夫妻グループとレバノン料理に行きました。メニューはあるんだけど、今日はお客さんが一杯でこれしか出せないのと言われたものを、やっぱり美味い美味いと言って食べ、かつ飲みました。実はH教授夫妻とお話するのは始めてで、でもなんかくだけた下ネタが多く、これが天下の大新聞に書評を書いている有名人かあ、とこれも国際学会のいいところ。日本人が少ないから参加者とは知りあいになれるという。
で、予約するときから、最終日の夜にはチューリッヒでパレードがあるから宿が埋まっちゃうよと言われていました。スイスといえばハイジ(実際時計屋に行ったら日本のアニメのハイジの絵が飾ってあったのには笑ったが。この日の昼にはソーセージを食べ、Mぺさんのウサギをちょっともらって食べた)、ハイジといえば牧歌的。パレードって、なんかチロル風の衣装を着たメルヘンっぽいのぉ?って思っていた僕たちは極東の山猿でした。パレードの日の何日か前から「あれって、すごいらしいね」とか「下品で下品でしょうがないらしいよ」とか「路面電車も動かなくなる位の混乱になる」とか「全裸半裸の男女が踊り狂うらしい」とか聞かされ続けました。確かにそう言われればなんとなく街の雰囲気が浮き足立っている。よく見ると街にレイヴがどうのこうのという垂れ幕もかかっている。やべえと思っていたら、街全体がクラブと化していた。パレードはパレードでもテクノパレード。そこここからハウス系のビートが鳴り響き、ある場所では音楽が干渉して、何が何やらわからんようになっている。そもそもランチの時間から駅に紐パンとブラだけ付けて、なぜかしっぽは着いた、スタイルのとてもいい半裸の美女(顔はサングラスしてたから想像)がいたもんだ。でホテルに帰って嫁さんと合流し、外へ出ればすでにずんずんと低音が響き渡る。街の中心部ではぐちゃあっと人が。で、確かに変な格好をした人もいて、全裸はいないが目のやり場に困るような人はたくさんいて、あ、でも一人きれいな女性が路上で上半身すっぽんぽんで着替えていた。時々おばあさんなのに露出度満開な人がいて、彼の国はおおらかだなあ。なんでも50万の若者が一夜を踊るためだけにヨーロッパ中から集まるらしい。一夜にしてチューリッヒの人口が3倍弱になる。
大勢の人が裸に近い状態だから、水鉄砲をもった若者が若い女の子の気を引こうと水をかけて回るのは世の道理。我々も随分流れ弾に当たりましたが、感心したのはやつらちゃんと狙いを分けてるんですね。僕らのようなどこからみても巻き込まれた観光客を狙うやつらはほとんどいない(一回やられたけど)。こいつらこんなに気の狂った格好して気の狂ったような踊りをして、ガキのように水鉄砲で騒いでいるくせにどこかに分別をもっていやがる。日本じゃあ、こうはいかないぞ。茶髪のガキどもだったら、絶対だれかれ構わずやり始め、ついでに周りのものをぶっこわしたりする。それに、日本じゃあ流れ弾に当たったほうも怒りだすから、こんなに平静でラヴ&ピース!なんてやってられないはず。絶対トラブルと思いながら感心しつつ、いやいや、夜になったらきっと荒れるはずだと性悪説の立場をとる中田は思うのだった。
そもそも日本じゃあこんな若者が主導した大騒ぎを、開催できるところなんてないですよね。ああいう音楽が理解できない人にとったら電車は止まるし音はうるさくて寝れないし道路はゴミで埋め尽くされるしで迷惑千万。しかし、彼の国はおおらかなんですね。豊かさから来る余裕ですか。というか、日本はやっぱり年寄りが偉そうにしすぎな社会なんだな。儒教もいいことばかりではない。
こんな状態なので晩ご飯を食べるところも苦労して、少し中心から離れたところで中華を食べ、夏時間なのでやっと暗くなった10時ごろに再び中心部に行くと、またずっと盛り上がっていて、でも全然危なげな雰囲気じゃなく、性悪説完敗でした。後から聞くところによるとノーアルコール、ノードラッグだそうで、なるほどそういうことかと。それからシーメンスだったかのクラブがあったのですが、そこは既に撤収作業に入っていて、ユニフォームに身を包んだ大勢の人が清掃に勤めていました。見る見るうちに片づいていく大通り。手際がいいことに再び感心。とはいえ翌朝僕らは帰路についたのですが、まだ昨日の余韻は街に残っていて、紙くずが散乱していたり、駅では排泄物の匂いがしていたりで、パレードの前日まであれだけきれいだったチューリッヒもさすがに一晩では回復しないというか、お前ら朝まで踊ってたやろ。
で、結論としてはやはり高須説が正しいのであって、ナチスの隠し財産はないのだと思うようになりました。この国の市民はモラルが(日本人の目から見るとうらやましいくらい)高い。モラルが高いということはみな自律性の高い個人であって、個々のレベルの分別のおかげで社会が効率良く回っているのではないかと。で、それはきっと教育が素晴らしいからでしょう。モラルや分別は隠し財産からは生れてきません。そういえば、嫁さんとMペさんからチューリッヒは教育学の父ペスタロッチが生まれた街だと教わりました。なるほど。比べて日本人はどうなんでしょう。モラルのこと、自律性のことを話題にしようにも、はなっからそういうものを軽視する人か、モラル(自己による制御)と法律(他者による制御)の区別がついていない人がほとんどのような気がします。いずれにせよ自己と他者の境界についてあんまり考えていない人たちです。こういうのをもたれあい・依存の構図だと呼んでいた人も学会参加者の中におられましたね。いつか日本ももう少し住みやすくなればいいなあ。
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