マルコヴィッチの穴
いろんなところでさんざんっぱら書かれているが、変な映画だった。大昔、ガープの世界を見たときに感じた奇妙さを10倍くらいに濃縮した感じだ。どこぞのビルの7と1/2階にマルコヴィッチの頭の中に通じている穴が開いているというところだけでもキミョウキテレツなのに、出てくる登場人物みんな変なんだものなあ。言語障害学の学位を持ったの秘書じゃなくって対外交渉重役やら、トラウマを心に負ったチンパンジーとか、禿げたチャーリーシーンとか。ジョンキューザックにしても、ぼけーっとした俳優で、なんでこんなのが売れているんだろうと思っていたけど、こういう狂った役のできる人だったのね。
まあ、人間というものは他人のことを理解できているようでいて、全く他人を理解していないもの。一度でいいから、誰でもいいので別人の頭の中に入って、その人が実際には何を見て、何を考えているのかを知りたいと思うことは、多くの人が感じていることだと僕は思っているが、それさえも、本当かどうか定かではない。こういう話をしたときに「うんうん、私もよくそう思う」と言っている人が、お調子を合わせているのか、それとも僕が言っていることと同じことを感じているのか、ああ、知りたい。
しかし、この映画の主要登場人物4人(チャリ坊とマルコヴィッチを除く)のうち、こういう見方に近いのはキャメロンディアスだけのようだ。彼女は他人になることで、自分の外に基準を持つことが出来、そうして自分の理解も進んだわけですね。一方、その夫ジョンキューザックはそういうものに接しても、自我とは何かと哲学的といえば聞こえはいいが、難しいだけで現実感のない世迷言を言うばかり、あげくサカリがついて訳のわからんことをしだすし。で、謎の女マキシムは、そもそも穴の中に入ろうともしない。この映画の中で、この人の行動だけは理解に苦しみましたな。それから社長は、穴を受け入れているし。
キテレツですごく面白かったんですけど(マルコヴィッチの潜在意識のシーンとか。大笑い)、やっぱり哲学かぶれの頭でっかちの映画であったという点は指摘しておかなければなりますまい。お話を転がすためだろうけど、登場人物がなぜそういう行動をするのかわからないところが少々あった。それにジョンキューザックを最後に破滅させるという、妙なモラルが存在していることも違和感を覚える。もし、最後のオチが非常に重要なもので、これを奇譚として普通の男が陥るワナとして描くのであれば、もっと一人称的に仕上げたほうがいいだろう。この仕上がりだと、キャメロンディアスが主人公のようで、そうするとジョンキューザックの破滅は彼の悪行と連結されて、それってでも彼だけが悪いんじゃないじゃんと、座りが悪いのだなあ。
それにしても、この邦題は偉いよ。よくもつけたよな、穴なんて。
御裁断は(最高☆5つ)
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