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シャドウ・オブ・ヴァンパイア
「吸血鬼映画に外れはない」がナカタの法則の第何項だったかはもう忘れてしまったが、今回もやはり法則は有効であった。とても奇妙な形ではあるが。
ファンタスティック系の映画を主たる鑑賞分野としているものとしては、吸血鬼ノスフェラトゥの名前は御馴染のもので、作品自体を見たことがなくても、写真などでその異様な風貌は見ているものである。そのノスフェラトゥが実在の吸血鬼だったとしたら、というワンアイデアストーリーの映画である。ノスフェラトゥと言っても、ウィレムディフォーはただのうらぶれたオヤジとして演じていて、血を吸うシーンといっても、怖いどころかまるで日雇いで稼いだ小銭で安酒を飲んでいるシーンのようだ。それでいて、映写機に映った昼間のシーンを一人見てもう忘れかけていた日の光を思い出すシーンがあったりもする。おかしみと哀しみである。
この映画のもう一つのテーマは、「映画を作る」ということである。そちらを担当するのはマルコヴィッチ演じるムルナウ。白衣を着てゴーグルをつけ撮影に臨み、「映画は科学の実験である」と宣う。映画のためなら、撮影スタッフが何人死んだってかまわないとし、撮影の終盤近くでは、あんなにたくさんいたスタッフはたったの三人(マルコビッチとカメラマンとウドキアー!)だけになっている。明確に描かれていないが、他は全部食べられてしまったのだろう(全般に演出に下手さが目立ったのは残念なところだ)。
それにしても、ニコラスケイジがプロデューサー。パチンコオヤジに身をやつして実はこんな目利きだったとは。あなどれん。
御裁断は(最高☆5つ)
ソードフィッシュ
こりゃさすがに公開延期になるのも致し方ない。
テロ前なら、アメリカの正義なんてこんなもんだよなとシニカルを気取って流すこともできたろうが、今この状況下においてはそうも言っていられない。良い娯楽映画はその中に一片の真実を含むものなのだ。
その意味でこの作品は不幸である。状況が私をして星半個減じさせてしまう。この作品は、観客の頭の中を常に半歩行くストーリー展開が売りの映画であって、その中ではよくできている部類だ。いきなりお話の中盤から入って、一度昔に戻ってからオチに持っていく劇構造は効果的で、とっても面白い(ただし銀行に入る直前のシーンまでだが。何度も言うが、そこから先はやっぱり素直にお話を楽しめないよ)。この作品は、劇中でトラボルタが言うようなミスディレクションの映画ではない(そのへんをこの作品を担当した配給会社の社員はよく考えるように。今回の宣伝方法は稚拙きわまりない。作品の長所を半減させるような宣伝してどうするというのだ)。この映画のオチはあくまで観客の予想の範囲内だろう。
トラボルタはパルプフィクションの殺し屋をぐーっと展開させたような役。ヒュージャックマンは若いころのクリントイーストウッドみたいな表情の役。ハルベリーは、あんなにすったもんだして見せた乳がたいしたことなかった役。ドンチードルはいつもおなじみの役で、サムシェパードはなんでこんな役をやろうって気になったのかさっぱりわからない役。なので、トラボルタの独壇場であることよ。
やっぱりスカーフェイスは傑作である。我が意を得たり。
御裁断は(最高☆5つ)
クローン
このタイトルはいかんよ、このタイトルは。うそじゃん。
ディック原作なので、例によってアイデンティティの不確実さの話。私が私であることを証明することは誰にも出来ないわけで、そもそもこんな問い掛けをすること自体が間違っているのであるが、それを言い出したらディックの存在自体を否定することになるので(でも、ということはディックが存在していること自体は認めることになるわけだから、それはよいことなのかもしれん。ああ、ややこしい)不問に付すことにする。いや、でも、知識に貴賎なしと言えども、この質問はやっぱしちゃいけないってのがあるよなあ。
で、今回自分を証明するために走り回るのはゲイリーシニーズ。この人、顔からして人間じゃないのだから、こういう人間だか人間でないのか判然としない役にはうってつけ。シュワちゃん主役のバカ映画(あれはあれで好きなのだが)とは一味も二味も趣が違う。役者は渋いところを取りそろえているのに、B級テイスト満載もよい。きっとこれはゲイリーシニーズの特性に違いない。あの顔がB級にさせるのだ。
しかし、SFというのは現実から遊離してなんぼのもの。キワモノ性がSFの肝とすればBテイストこそよいSF映画の必要条件なり。ということで、けっこう面白いお話だった。中盤をあと5分から10分カットすれば申し分ない。ただし、演出はダメダメ。音響はうるさいわ、カットが細かすぎて何が何だかわからないわなわけだが、「コレクター」の監督と聞けば納得も行くというもの。
それにしても人類が戦っているアルファケンタウリとはどのようなものなのか、その人類社会はどのようなものなのかについてくどくど説明せずに断片だけをチラチラ見せるだけというのは、ムードを高めてくれるものです。背景構築がしっかりしているように思えて、これもSF心を刺激する。
しかし、マデリーン・ストー。幸薄い役をやらせたら天下一品であることよ。
御裁断は(最高☆5つ)
トレーニング・デイ
あたしゃこのページでは以前から事あるごとにデンゼルワシントンを罵ってきたものです。彼の何があっしをイラツカせるかって言うと、あの正義感。暑苦しい。それがお前さん、今回は強烈なヒールに徹するというじゃありませんか。これまでの悪態の罪滅ぼしもあるし、こいつは見ておかないと。それに、これを見とかないと今後同じパターンで攻撃したときに「でも、トレーニング・デイの悪役は素晴らしかった」と反論されて足元をすくわれる恐れがある。それだけは避けなくては。
そういう不純な動機で見に行ったわけで、白状すると最初ッから偏見プンプン、何とかしてデンゼル君のあら探しをしてやろうと思っていたわけです。しかし、すいませんでした。あたしが悪うございました。デンゼル君、上手でした。次第次第に悪の本性発揮していく迫力。暑苦しくっても見逃します。
この映画、構造としては巻き込まれ型のサスペンスのはずなのですが、デンゼル君のパワーの前にイーサンホークは影が薄く、本来物語的にはクライマックスになるだろう逆襲のカタルシスが見られません。デンゼル君が「悪と戦うために純粋ではいられない」と説く前半部分のほうが後半部分よりも面白いのです。まあ、人物造形としては悪も善も持ち合わせている複雑な人物の方が魅力的ですわな。魅力的といえば、スコットグレンも出番は少ないものの面白かった。
デンゼル君と言えば、戦火の勇気のラストシーンは主人公が家に帰って、色々あったけど家族に優しく包まれるというものでした。今作も同じように家に帰る主人公の後ろからのショット。しかし、こちらはイーサンホークの心に深い傷が出来たことを暗示する暗いラスト。思えば、ずいぶんなトレーニングデイだったことよ。
しかし、冷静に考えてみると、イーサンホークを巻き込む必要なんて全然なかったじゃないですか。一週間もかけて不必要な計画を練った結果があれになっちゃあいかんでしょうよ。
御裁断は(最高☆5つ)
ドラキュリア
ドラキュリアなんて、いかにもバッタもの臭いタイトルだと思っていたが、セリフを聞いているとちゃんと登場人物が「ドラキュリア」と発音している。間違ってなかったのね。でも、「ドラキュラ」と発音している人もいたから、ある種の訛りなんだろう。
中身はヘルシング教授まで出てくる正統派吸血鬼映画と見せかけて、驚天動地の展開を見せるもの。しかし、吸血鬼映画のご多分に漏れず、結構面白い。ストーリー展開がよく考えられていて、展開上もメリハリがあって、お話についつい引き込まれてしまう。最近の作品では良質の部類に入るといえよう。
ヘルシング教授にクリストファー・プラマー。もうどこから見てもヘルシング教授そのもの(見たんか)なのは非常によろしいが、いかんせんもうご老人。歩いているのもやっとに映る人のアクションはちとつらい。吸血鬼用の武器の造形は面白いかったから、もっと人による退治のシーンがあってもよかったんだがなあ。あの老人では、難しいなあ。あと、ドラキュラのターゲットであるところのヴァージンストアー(!)で働くヘルシング教授の娘役の女優さん、こちらはアクションは上手になされるのだが、いまいち魅力不足。
しかし、この映画のストーリーはどう見てもドラキュラ側の視点で描くべきものだ。驚天動地の展開につながるドラキュラの心理状態などを何シーンかでいいから描いておけば、傑作になったのに。残念だ。
御裁断は(最高☆5つ)
トゥームレイダー
思い出しましたよ、何年か前に「モータル・コンバット」を徹夜明けのフラフラの状態で見に行って、「もう二度とゲームの映画化作品は見まい」と心に誓ったことを。暑さ寒さも彼岸まで。いや、喉元過ぎれば熱さを忘れる。あれ?羹に懲りて膾を吹く?
それでも、モータルコンバットには明確な敵がいたもんだ。今回なんて、途中からドラマの中の対立構造さえどっかにいってしまっちゃっている。ホットパンツで二丁拳銃のグラマーなネエチャンが暴れ回っていれば、それでいいのか?そんなにゲーマー達の脳髄はいかれてしまっているのか?確かに、こんな風に必然性のないアクションシーンを次々と繰り出されてしまっては脳髄がいかれてくるのかもしれん。
そりゃあ、ララクロフトはかっこいいキャラなのかもしれないよ。でも、だからといって、いちいちキメキメに演出されてもこちとらスクリーンの向こうで恥ずかしさに身を固めるばかりで。「ああ、オレはなんてものを見に来てしまったんだ」。インディを見てみなさい。動いている間の8割くらいは情けないじゃないか。そういう人が要所要所で活躍するから、お客は燃えるのだ。それに、レイダースを見てみなさい。なんのかんのいって、神秘の力が出てくるのは最後の10分ほどじゃないですか。それまでは地に足着いた現実的なアクションだから、お客は燃えるのだ。映画の中半から、ぜーんぶ神秘のせいにされちゃあ、やってらんないよなあ。そうするんだったらハムナプトラみたいに、異世界構築をもっと力入れてやってくれなくちゃあ
だいたい、あそこまでやって、結局ララは父親の言うこと聞かないでやんの。で、やったことはといえば、なんのためだかさっぱりわからんし。あー、今度こそ誓いをわすれないようにしようっと。
しかし、中学生くらいの頃にこれを見てたら、うっかりはまってしまいそうだ。あの胸だからなあ。
御裁断は(最高☆5つ)
ラッシュアワー2
前作は私ら夫婦の間ではいたく評判が悪く、チャンツィイーたんを見るためだけに劇場に足を運んだのだが、どうしてどうして、前作のノッタリはどこへやら、えらくテンポのいい、笑える映画になっていて意表をつかれた。少し幸せ。
いやまあしかしチャンツィイーたん。グリーンデスティニーどころではない大暴れ。彼女はアクションシーンではいつも眉をヘの字にして、泣きそうな顔をしているので、悪役をやっててもついつい感情移入。ほらほら、クリスタッカーなんてギャグ担当なんだから、いてこましてもかまへんでえ。それにしてもかわいい笑顔がエンドタイトルの恒例NGシーンで一回拝めただけだというのは、不完全燃焼あるね。しかし、ジャッキーチェンと闘わないのは、さすがにまだ格が違うからなのか、それとも逆にジャッキーの衰えがばれてしまうからなのか(前作に比べるとジャッキーのアクションはよかったと思うけれど)。
ジャッキーといえば、テープ越しにとは言え、キスシーンがありましたぞよ。これでもあっしは笑った顔がジャッキーに似ていると言われたことも何度か。おいらだって、おいらだって、チャンツィイーたんと、、、(そういえば、あっしはヨメサンの夢の中でチャンツィイーたんと浮気をしたことがあるそうだ。ちっともうれしくない)
それにしても、次にニューヨークに行くのか。そのうち世界中の大都市から嫌われるようになるぞ、ジャッキーとクリス。
御裁断は(最高☆5つ)
スコア
破綻はないものの、それ以上の物もなーんにもない凡百の犯罪映画。エドワード・ノートンとロバート・デ・ニーロを共演させたい、というただそれだけの映画。マーロン・ブランド?なんか人語を喋る巨大な肉塊がいたけど、あれ着ぐるみでしょ?
いや、しかしこの手の映画で銃弾がたった二発だけしか発射されない映画は今どき貴重だから褒めたい気持ちでいっぱいなのに。えーっと、えーっと、エドワード・ノートンはさすが若手第一の演技派だわ。劇中でデ・ニーロが言うセリフは本音でもあるんだな「自分を抑えるのが大事。。。」いや、そうではなく。えーっと、えーっと、悪党達の虚々実々の駆け引きと金庫破りが成功するかどうかの手に汗握るサスペンスは、定番通りというか使い古されたプロッ。。。いや、デ・ニーロは金庫破りにかけてはプロだけど一方で愛する女性のことを想う優しい面があるという人間味のあるキャラクターを見事に演じていて、これって「15ミニッツ」のキャラクターの引き写し。。。
それにしても、誰かアンジェラバセットにその髪形似合わないって忠告してあげなよ。
御裁断は(最高☆5つ)
ブリジット・ジョーンズの日記
まあ、見る前からだいたいどんな映画かは想像がついていたが、一緒に見に行ったヨメサンが想像以上に誉めそやすもんで、仕方がないので積極的に糾弾することにする。
世の人はアホなもんであって、アホなもんばかりの世の中だから面白いのだと言えるのだが、だからといって自分のアホさかげんを、それが私の魅力なのと自己肯定しちゃあ、いかんわな。そうやって、問題点と向かい合わないことが、ますます問題を深刻化させているのに、最終的にその問題点を解決せぬままにハッピーエンドにしてしまう。ひでえ。
いや、あっしだってわかってるんですよ、これが単なるファンタジーであることを。しかし、こういう話はあまりにありふれていて、これがレニーゼルヴィガーでなければ見るに堪えない状態であることが容易に想像できるわけだ。周りで見ているものとしては、なんとかしろよと真剣に言いたくなるのに、こんな映画を作られてしまっては足元掬われるじゃないか。「裏窓」のミス・ロンリーハートでも見て人生について考え直して欲しいよ、まったく。
まあしかしこの映画、男性と女性で評価が真っ二つにわかれそうに思うがどんなものだろう。あっしとしては、この映画をほめる男性がいたら是非その意見を聞きたいものだ。
それにしても、この作品を8スクリーンの中でも最大の、しかもTHXサウンドで上映できるスクリーンにかけるって、いったいどういう了見かね>長崎のユナイテッドシネマ。ラッシュアワー2の方がなんぼかTHX向きの素材だと思うぞ。
御裁断は(最高☆5つ)
キス・オブ・ザ・ドラゴン
「この戦いに愛はいらない」そうだ。というより、リーリンチェイに(ハリウッド風感情世界に基づく)愛はできない。このお話は言葉もわからぬ異国に来た中国人警察官と元アメリカの田舎娘が陰謀に巻き込まれる中で互いの境遇に共通点を見いだして心を通わせる話である。リーリンチェイをかくまってくれる中国食材屋の店主(ケイトーがこんなに味のある老人になっていたとは!)の望郷の念。東洋人の名前を発音できないからと言ってリーリンチェイのことをジョニーと呼び続ける悪役。そして彼を倒したときにリーリンチェイが「オレの名前は・・」とやるお約束の展開。クレジットを見るとストーリーはリーリンチェイとある。ひょっとして、本当は香港に帰ってウォンウェイフォンをやっていたいんじゃないのか?ジェットリーなんて名前はやっぱり不本意なのか?
マトリックス2の悪役を蹴って、こちらをやったという。巷間「リーリンチェイは作品選びのセンスがない」と言われているが、今回に関しては正解だったのではないだろうか。のっそりキアヌリーブス相手にワイヤーアクションやっているよりも、体の動く悪役を選んで存分に暴れてくれるほうがアクション俳優としては生きるというもんだ。アクションシーンにはブルース・リー映画からの影響があるようだ。それから狭いオフィスで格闘を有利に運ぶというシーンは今作の工夫である。
リーリンチェイはアクション以外の部分ではどこをどうとっても上手な俳優ではない。もちろん彼なりの個性や魅力はあるのだが、それ以外を表現できたことはこれまでなかったのである。そして彼の個性は力と単純さ命のハリウッドでは扱いにくい。その証明が「ロミオ・マスト・ダイ」だったのだ。しかし、下手な役者には喋らせなければいいのだ。このことによって今作ではリーリンチェイをミステリアスな東洋人(と西洋人が考えるもの)に仕立て上げている。鍼の達人であるという設定もそれを狙っているのだろう(しかし秘孔を突かれた敵が目鼻口から血を流して死んでしまっては、まるで北斗の拳である。敵の格闘ボスが手足が長くて上体も大きいのに頭がリーリンチェイより小さいというのもケンシロウみたいだ。まあいいけど)。これはまずまず成功していて、これまでのリーリンチェイとは一味違うカッコよさである(ブリジットフォンダと絡むところは相変わらずの純情坊や演技だが)。
しかし、パリはきれいな街だなあ。
御裁断は(最高☆5つ)
ジュラシック・パークIII
知人曰く「中田君は星二つをつけるだろう」とのこと。確かに、あっしはこれまで口を酸っぱくして「登場人物の愚かさのせいで危機に陥ってもだーれも同情しない」って言い続けてきました。そういう意味で言うと、確かに星二つをつけたくなる側面はある。
しかし、次第にわかってきたのです。今作が「おっちょこちょい家族の失われた世界冒険記」であることを。いーや、誰が何と言っても、少なくともテアレオーニだけはこの作品をそう位置づけているはずだ。でなきゃ、あの両手を胸の横でひらひらさせるニワトリスタイルの逃げ回り方が理解できん。それに、この監督はジョージョンストン。そういう情感をうまく娯楽性と結びつけてきた人じゃないですか。むむ、書いていて自分でもだんだん本当じゃないかと思えてきた。
そう考えれば、愚かな登場人物は決してお話の足を引っ張るものではなく、むしろ家族を思う愚直さの現れということなのでむしろ必要不可欠なものなのです(見ているときは、そんなふうには思っていなかったが。だって、ジュラシックパークだと思ってるからなあ)。
そう考えると、不満の残るのはサムニールの処理。このキャラクターは一作目をひきずっているわけで、しかもそのせいで恐竜嫌いになってしまっている、という設定で、そのことをわざわざ語らせてもいるのだから、この人物の変化をもうちょっとはっきり描いておいたほうがよかったのではなかろうか。
それにしても、ヴェロキラプトルは一作目から出てきてるんだから、今回始めて明らかになる性質なんて出してきちゃいかんだろうよ。まあ、いいけど。
御裁断は(最高☆5つ)
PLANET OF THE APES 猿の惑星
映画史上に残る衝撃の結末を持つオリジナルを前にして、元から勝ち目のない戦いだったことは差し引いて考えるとしてもだ。だからといって、「猿の軍団」レベルの茶番を見せられては、黙ってられない。リ・イマジネーションだと?ちゃんちゃらおかしい。
最近映画雑誌を見ているとよくあるのが「オリジナルでは人間のカリカチュアにしか見えなかった猿が、こんどはリアルだ!さすがティムバートン!独自の世界を構築させたらお手の物だ!」という類いの太鼓持ち。しかし、あーた、オリジナルの衝撃は、猿が人間みたいだからこそ生まれるざんすのよ。今回のように猿が本当に猿みたいだったら、ただの駆逐すべきエテ公。人間バンザイ!ってなりますがな。そうしたら、後は悪辣な敵猿を出して、どうやってこいつを退治するかくらいにしか興味の焦点が作れない。これじゃあ凡百のアクション映画とどうやって差別化できようか。あ、ここでリ・イマジネーションですか?
リ・イマジネーションなんて中身の全くない言葉を弄したりする暇があったら、もっと気を入れて映画を作って欲しいもんだ。主人公の言うことを聞かない登場人物のバカな行動のせいで危機が訪れたとして、どこの観客がハラハラドキドキするもんかね。ちゃんと脚本を書いて必然的な危機を生み出してくれよ、頼むから。それから、マークウォルバー愚(誤変換したけど、このまま使っちまえ)。どこかのインタビューで「今度のラストはオリジナルよりも衝撃だよ」って抜かしてたよな。良心って言葉を書き取り帳に100回書き写しときなさい!
しかし、あたしゃわかったよ。ティムバートンはきっと子供の頃に日光かどこかで猿と目が合ってオヤツ引ったくられたんだよ。そのときのトラウマがこんな映画を作らせたんだわ。いーや、そうに決まっている。でなきゃ、ティムロスの異常なまでの人間憎し猿と、とってつけたようなラストは理解できん(それにしても、オリジナルが強烈なラストだからって言って、どうして今回も無理やりなオチをつけなきゃいけないかねえ。ここが、最もリ・イマジネーションからかけ離れてるんじゃないか?)
御裁断は(最高☆5つ)
A.I.
アシモフ御大が見たら卒倒しそうな出来の悪いロボットだな、まったく。こんなテーマを語るんだったら、主人公をロボットにしなければいいのに、まったく。まあ、アメリカ人の考えるロボットや人工知能があんなもんなんだったとしたら、日本の将来も安泰ってもんだよ、まったく。
閑話休題。この映画は、愛についての強迫神経症的物語です。もしくは、ユニークであることリアルであることについての妄執についての物語だともいえます。ロボットは、この三つを求めて旅をするわけです。で、このようなものが現実に存在しているといまだに信じちゃっている世代の代表たるスピルバーグの作品ですから、もちろんこの話を肯定的に、優しく、情感たっぷりに描いています。しかし、スピルバーグ印100%の映画は見てもちっとも面白くないのは歴史が証明している通り。
このお話、結末としてロボットは愛とユニークさを手に入れた気にさせてもらって御満悦なのですが、これじゃあ「おいおい、2000年もかけてリアルであることを追及してきたのに、最後はそんなまがい物で満足するんかいな」と突っ込みが入るのは必定です。炭素で出来てるかどうかが重要なんかい!
愛なんていう概念は厄介なものですぞ。この作品で描かれている愛は、基本的に押し売りでしょ。でも、「愛」という錦の御旗があるもんで、その暴力性について、(少なくともスピルバーグは)異議を唱えることが出来ない。で、グルグルグルグル苦しむわけです。愛なんて我々人間にとって扱える範囲を越えているんじゃないですかね。もともと存在しないものとして扱っちゃいけないんですかね?
それにしても、キューブリックはもともとこの企画をスピルバーグに監督させたがっていたというし、できたものも彼のビジョンに忠実であるという。ってことは、やっぱりキューブリックも晩年は焼きが回ってたってことですかね。年はとりたくないものだ。
御裁断は(最高☆5つ)
JSA
38度線をはさんで対峙する北朝鮮軍と韓国軍兵士の間に生まれる友情と、国家間の対立がその友情を引き裂く悲劇を描いているわけだが。
このお話を、例えば「戦火の勇気」のような「本当は何が起こったのか?」型の軍隊ミステリーの体裁で描くわけです。しかし、この手の映画では、隠されているのが悪であるのが常道で、その悪を隠す勢力(これが軍隊の論理的には悪でないのがこの手の映画の常道で)とそれを暴く正義の捜査官(結局捜査官は軍と決別するわけよ)との対立がドラマにダイナミズムを生むものです。なのに、この映画では、そういう仕掛けは施されていなくて、真実を明らかにしようとする側がただの考えなしにしか見えないという大失態を犯しています(いや、でも本当にそういう設定なのかもしれない。よく考えたらそういう描写もあったぞ。しかし、その設定って不必要だよなあ)。あげく美人捜査官(日本人男子としては、たまらんタイプ。韓国の女優さんはどうしてこうどいつもこいつも)の過去にまで南北対立の悲劇を埋め込むという行為に出て、またそれがほとんどドラマに効いてこないという下手さまで見せてます。イチャモンをつけることが困難な、重たく重要なテーマを扱っておきながら、映画としてはイマイチ盛り上がりに欠けるのは、そのへんでしょう。
あたしゃ、お隣の国の事情はよく知らないのだけれど、彼の国では友情が生まれると本当にあのように大のオトナ同士が遊ぶんですかね?それともあれは前線生活でのストレスから生じる幼児退行現象のなす業か?それにしても毒蝮三太夫を20%ほど横に圧縮したような男とネプチューン原田もどきが子供のようにはしゃぎ戯れるんだから面妖ですぞ。
御裁断は(最高☆5つ)
デンジャラス・ビューティー
サンドラブロックが真摯に映画作りに取り組んでいることが窺われてよい。これに比べるとドリューバリモアなどおふざけに見える(比べる前から自明だという話もある)。曲がりなりにもハリウッドスターだろうに、ブヒブヒはよくやるよなあ。ブヒブヒ。
お話は、オトコオンナ(死語)のサンドラブロックが連続爆破事件の捜査のためにミスコン審査会に候補者の一人に化けて潜入することになり、最終的に女らしさへの偏見を改め解放されるという話。うーむ、ポストフェミニズム。
こういうプロットだと、普通は「日ごろのがさつな言動がつい出てしまって、まわりの候補者達からその正体を怪しまれる。ピンチだサンドラ!」という展開がお決まりなんですが、この作品はそういう風には展開しません。よくよく考えなくても、そんなアホな!という展開が多々あるわけですが、サスペンスや犯罪アクションとして作られていないということなんでしょうな。敗北型スポ根物の一形態として捉えるほうがよいのかもしれません。
それから、事件が解決した後の最後のくだりは、「沈黙の」ものでセガールオヤジが最後にぶつ演説みたいなものということで不問にしておく。
最近どうもあたしゃこういうヌルイ構成の映画に弱い。理性では受け入れてはいけないと思いつつ、結構楽しんで見れてしまうんですよねえ。なので、この映画の長所を二つあげておきます。1)全体として不快感のない作りになっている。2)マイケルケイン、キャンディスバーゲン、ウィリアムシャトナー。この御老体三人が非常に良いです。ウィリアムシャトナーなんて、生涯のベスト演技なんじゃないの?
ところで、理系の大学院にいた私は、サンドラブロック風オトコオンナを見ながら、「あんな人いるんだよなあ」と(誰とは申しませんが)何人もの知人を思い起こしました。もちろん、彼女達はサンドラブロックではないのでミスコンに出たりはしません。念のため。
御裁断は(最高☆5つ)
ギフト
サムライミの昔からのファンは、彼のぶっ飛びキレキレ演出やリアリティなんて屁とも思わぬストーリー展開を気に入っているわけで、ここ何作かの路線に対して食足りなさを主張する人もたくさんいます。「ラブオブザゲーム」などは、徹頭徹尾現実から足を放さないという映画でしたよね。
それが今度は霊能力者の話です。で、非現実的なストーリーを真正面から描くということで、ひょっとして昔のサムライミ復活?という期待を持っている御仁もいるでしょうが、残念でした。あなたの期待は満たされません。ただし、事件の解決方法にサムライミ的モラルが横たわっているように思います。だから、この映画を「サムライミはいまだに魂を売ったままだ」と評価するべきではないというのが僕の意見です。彼のことをもう少し懐の深い人物として受け止めるべきでしょう。
サムライミにとって父というのは、一つのテーマになっているのでしょうか?今作の登場人物の一人にとっての父親像はクイック&デッドのディカプリオとジーンハックマンとの関係と似たところがあるように思います。今後、この点は注意しておかなくては。
南部を舞台にしているにも関わらず非常に寒々とした映像です。マングローブ林なのに、まるでブレアウィッチの森のような映像になっている。劇中でレッドネックと称されるキアヌリーブスも全然暑苦しくない(これはミスキャストだよねー)。ケイトブランシェットはもともと涼しい顔しているし。それにしてもケイトブランシェット演じるところの決して裕福とは言えない白人女性はよく造形されていたと思います。特に衣装が。大変説得力が。
ちょっと思ったんだが、この作品ってサムライミ版「アンブレイカブル」なのかもしれないな。
御裁断は(最高☆5つ)
リトル・ニッキー
こういう作品に、お洒落なバカ映画を好むお気取りさんが大挙して押し掛けたりする事は間違ってもありません。なので、こっちとしても安心して褒めることが出来ます。どこからどう見たって、誰の人生にも一ミリほどの影響も与えないだろうこと請け合い。
しかし、ただのバカ映画と侮ってはいけない。ストーリーは(少なくとも6デイズ/7ナイツよりは)緻密だし、繰り出されるギャグも(少なくともオースティンパワーズよりは)ストーリーと絡む必然性があるし、地獄が存在する世界の構築度合も手抜き無しで、ばかばかしさの背後にしっかりした土台がある完成度の高い映画です。アメリカでの受けが悪かったのは、天国と地獄の関係性(リース・ウィザースプーン!)や、悪魔が実はいい奴で主人公として世界を救うというヒネリ方が、批評家連のお気に召さなかっただけだということにしておきましょう。
アダムサンドラーはヘビメタおたくという設定なのですが、ならば悪の音楽は実は、、、という件は大笑いさせてもらいました。あと後半の対決シーンもおかしくってならんかった。まあ、役柄としてはウォーターボーイのときと基本的には変わっていないわけですが、面白いんだからいいですな。ウェディングシンガーの時よりはずっと存在価値が高い。
映画のくだらなさを愛する人にお勧めします。
御裁断は(最高☆5つ)
15ミニッツ
消防組織にも警察権を持っている人がいることが学べる映画。なので、放火現場での目のつけ所が違っていたり、火事現場に巻き込まれたときも普通の人が思わない判断をしたりということが描かれていて、一風変わっていて面白い。アメリカにはいろんなところに警察がいるものだなあ。
この映画、未消化なアイデアが盛りだくさんに詰め込まれていて、それぞれは目新しいものなのでよいのだけれど、全体として調和が取れていないのが、残念なところ。シャーリーズセロンが売春組織の元締めを東欧の言葉をしゃべりながら演じるところとか、デ・ニーロのプロポーズとか、マスコミの中の良識派と低俗派の対立とか、目撃者の東欧人娘のエピソードとか、全部本筋とは関係ないわけです。
映画を見ている間は、こういうのを刈り込んで、デ・ニーロとエドワードバーンズの間の師弟愛的な関係と、確信犯的な殺人者をも主役として祭り上げてしまうメディアの売らんかな主義に対する揶揄だけに集中すればいいのにと思っていました。でも、今考えてみると、そんな映画はこれまでにいくらでもあるわけだから、そんなに簡単じゃないのかもしれませんね。それはともかく、こういった映画の構造に関する問題は散見されるものの、デ・ニーロの刑事は相変わらず存在感たっぷりだし、悪役二人の憎々しさも極まっていて、見ている側としては、「くっそう、こんなことが許されていいのか」と燃えどころ十分です。
ところで、この映画の味付けに、アメリカの象徴としての「映画」に対する批判的スタンスってのもあるようなんだけど、これって自分の足を食うタコなんじゃないですかね?
どうでもいいんですが、エンドタイトルが長すぎませんかね。途中で4回くらい音楽が替わったように思うが。ハムナプトラ2みたいに、エンドタイトルにもデザインを施してお客を飽きさせないような工夫をしている映画が増えてきて風潮の中では、なかなか辛いものがありましたぞ。
御裁断は(最高☆5つ)
ハムナプトラ2 黄金のピラミッド
大ヒット作の続編として落第というほどのことはないが、決して褒められた出来でもないというところ。前作のキャラクターはフル出演だしイムホテップは再び甦るしなのだが、この辺の描写を今回しないのは続編だからかまわない。しかし、新しいキャラクターの(ブレンダンフレイザーとレイチェルワイズの息子も含めて)描写が希薄なもので、お話にのめり込もうとすると難しい。観客はスクリーンで繰り広げられる大冒険を少し距離を置いて眺めていなければならないわけです。
まあ、しかし、地平線を埋め尽くすアヌビスの大軍とか(スターシップトルーパーズの焼き直しに見えないこともないが)、エジプトの荒野を行く飛行船とか(プレステのゲームに見えないこともないが)、イマジネーション溢れるビジュアルを見せてくれるのは相変わらずで、それはそれで楽しいので見て損したと思うほどでもない。
それにしても、イムホテップはあんまりにもかわいそうです。前作でもたいがい可哀相な役だと思っていたが、今回のはなあ。彼は何のためにこんなにも生に執着していたんだか。そう思うと、今回の彼女の行動は前作の話の骨格を根底からひっくり返すと思うんだが、いいのか?これで?
スコーピオンキングでもう1本映画を撮るって言うから、どんなに魅力的なキャラかと思っていたら、期待外れだった。出番もほとんどなかったし。ハリウッドはネタ切れなのか?
御裁断は(最高☆5つ)
初恋のきた道
せ、せ、世界中が、は、走るチャンツィイーたんの味方なんだようっ!
と、あられもなく叫びだしそうになってしまう映画。あぶないあぶない。もう、わしはオトナだからいいが、年ごろの頃にこの映画を見せられたらついつい中国まで走って行ってしまいそうだ。全編チャンツィイーたんのアップ、アップ、アップ。これでもか!これでもか!これでもか!
ぜ、ぜ、全世界を敵に回したくはないから、この映画の悪口なんて、絶対に書けな、書けな、、、っていうか、年取った母はいいから、もっとチャンツィイーたんを出せ。おいら、うっかり開巻10分で「この婆さんうっとうしいなあ」なんて思ってしまいましたよ。その後、その祖母さんの若き日が実はチャンツィイーたんだった事を知ったあたしのバツの悪さったら。この映画は語り手である「私」が父の死を嘆き悲しむ母を前にして、両親の初恋を想うという構成になっています。三部構成になっていて、まず現在が描かれ、過去が描かれ、また現在が描かれるわけです。って、ことは?後半は、チャンツィイーたんがひっこんで、また婆さんだけが。最初5分くらいは、「ああ、あのチャンツィイーたんがこういってるんだから」と思えていたわけですが、すぐに続かなくなりまして、「婆さんうるさいよ」モードに。しかし、この映画は正しくチャンツィイーたんのアイドル映画になっていまして、最後の最後にお楽しみショットが。。サービス満点(って、そういうところを褒めるべき映画なんだろうか?)
いや、そうじゃなかった。チャンツィイーたんの初恋の人が、あんな、三ツ木清隆を縦に20%ほど引き伸ばしたような男でよかったのかぁ?これなら、別に、おいらが相手になってたって。。。ハッ。ひょっとしてそういう効果だったのか?じょ、じょ、女性はどう思っているんだ?
それにしても、長崎の映画館事情は劣悪の極みでして、ときおり訪れる静かなシーンになると、下の階から「メキシカン」のアホな音楽が響いてきて。感動しそこねたぜ、まったく。この設備の悪さはお金を取れるレベルじゃないですぜ。設備を整えないから客が入らないんだよ、まったく。
御裁断は(最高☆5つ)
隣のヒットマン
いやあ、感じのいい映画だった。役者達が余裕しゃくしゃく楽しそうに演じていて、観客が好きになる人の良い人物はちゃんと幸せになって、笑わせるシーンはふんだんにあって、でも下品に流れず、上映時間はコンパクトで。
ロザンナ・アークエット。あんた、いったいどうしちゃったのよ的演技。非ネイティブでも気がつくほどのキテレツになまった英語を喋っている。こんな人だったっけ?ブルースウィリスはいいねえ。もともとコメディアンだから、こういう役やらせると最高に上手い。IMDBを見ると、この作品のプロデューサーでもあるらしい。アマンダピートもうまく存在感を出していた。
御裁断は(最高☆5つ)
トラフィック
おおまかに言って三つのストーリーがあって、時々登場人物がすれ違いはするものの、それぞれのお話は最後まで独立したままで映画は進む。ただ、この三つのストーリーはアメリカとメキシコの間の麻薬戦争の現れであり、表面的でない部分では相互にしっかり結びついている。
という、骨太の映画です。グラディエーターよりはずっとアカデミー賞にふさわしい、志の高い映画でした。三つのストーリーは画面の色調が統一されているので各パートの区別がしやすいとの評判。メキシコはティファナの警察官であるところのアカデミー賞助演男優賞受賞のデル・トロのパートはくすんだ薄い黄褐色で撮影されててたんだが、なんかデル・トロの顔がよく見えんぞ、おいおい、とか思った(だんだん慣れてきてわかるようになったんだけど。確かに賞もらってもいい演技&役だった)。ちょっとやり過ぎじゃない?もうちょっと色彩的にきれいにしてくれてもよかったんじゃないの?カメラマンはソダーバーグ監督本人だそうで、手持ちカメラを駆使して臨場感溢れるシーンを撮影。普通、手持ちカメラの映像はともすると見ているほうは気持ち悪くなる(あっしは劇場の前の方で見るのね)んだが、今回はそんなことはなかった。上手だな、ソダーバーグ。
マイケルダグラスの娘が薬欲しさに黒人ドラッグディーラーといたすシーンは見ていて衝撃だった。あっしもハリウッド風人種偏見に知らずに毒されているのであろう。いや、それにしても麻薬なあ。解決するのは簡単なような気がするんだが。アメリカ人が貧乏になって、「お金を貯めてテレビが買いてえ」とか思う生活になったらいいんじゃないの?無理か
ゼタジョーンズがすごい汚い役をやっていた。キャラクターとしてもだし、見かけもだ。いいのか?ゴージャス系女優として、これからやっていけるのか?
御裁断は(最高☆5つ)
ショコラ
昔々フランスに小さな田舎の村があったと思いなせえ。その村は教会と村長の伯爵さまを中心に神の教えに忠実に質素で欲望を抑えた生活を送っていて、村中で断食を行う(イスラム教か、お前らは!)期間まであるんだとさ。そこにやってきたのが、赤頭巾を来た母娘。あろうことか断食中の村でチョコレート屋を開き、その甘い魅力で頑なで色々な不自由な因習にとらわれていた村人の心を解放するお話。
そりゃあ、あんた、人間基本的な欲望を我慢するのは不自然ですわな。で、そういうのを「不自然ですよ」と語るというわけで、この20世紀欲望肯定文明のツケを払わなくちゃならないだろう新世紀に全く現代的意義を見いだせないお話なわけです。そんな陳腐な話を語ろうってえんだから、ちっとくらいは「芸」ってもんを見せてもらわねえと困りますわな。ただのおとぎ話仕立てじゃあ、芸とはいえませんぜ。どうも、ユーモラスな味付けも施しているつもりのようなんですが、ちっとも笑えません。ハリウッドに通って雑巾掛け百回からやり直して欲しいもんだ(後ろの席に座っていた白人三人娘は四六時中バカみたいに笑っていたから、ひょっとして英語をちゃんと聞けば笑えるのかと思ったりもしたが、最後のカンガルーでも大笑いしていたので、連中は単に映画と見ると条件反射的に笑う単細胞だったようだ。あのショットは娘の気持ちになってしみじみするなり小さな感動を覚えたりするところでしょうが。まったく、これだから毛唐って奴は)。
しかし、このお話、ひねくれた見方をすると、ひもじい思いをしている人々を糖分で籠絡して味方につけようってんだから、ほとんど買収ですわな。しかも主役のジュリエットビノシュは最初っから村長さんに対して、というか、古くさいタイプの人たちに対してケンカ腰。相手陣営の弱そうなところから順番にくさびを打ち込むんですから、非常に狡猾。あたしゃ、村長さんにおおいに同情しましたね。ん、ちょっと待てよ。どうも、断食のことが気になって仕方がなかったんだが、ひょっとして、この映画は西洋世界とイスラム世界の対立と西洋世界が取るべき政治的戦略について描いた映画なのかぁ?(そんなわけはない)
それにしても、ジュリエットビノシュがアップになるたびにソフトフォーカスになるのは、もちろん意図的なんでしょうが、気になってしょうがなかったですね。何の効果を狙ってるんだかさっぱりわかりません。一方絵作りは丁寧な仕事だったように思います。ジョニーデップのシーンはあんまり必要性を感じなかったんですが、ジュディデンチは圧巻でした。さすがはM。それから、娘はポネットだったか。大きくなったもんだ。
なんでもいいが、明治製菓もやることがスマートさにかける。チョコレートの映画とタイアップするだけならいい宣伝方法だが、本編上映直前にそのことをスクリーンででかでかと訴えることはあるまい。非常に興を削がれましたよ。企業イメージを落とすだけですぜ。どうも、日本の企業はこういう手法が下手だ。 誰か、教えてあげたほうがいいな。
御裁断は(最高☆5つ)
クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲
いろんな映画評のページであまりに評判がいいもんだから、見に行ってみました。もし評判通りならば自分の映画通度合をひけらかすことができる格好の材料になるという色気もあって。「いや、あんた、クレヨンしんちゃんをバカにしちゃいかんよ。いっぺん見てみ、むっちゃ面白いで」なんて言いながら、「どうだい。あっしはどんな映画でも偏見なしに評価できるんだぜ」なんてことを暗にほのめかすわけですな。
いくらそういう色気があっても、この作品を天下のGWまっただ中に見に行くのは非常に勇気がいりました。正直、映画館の出入りには人目を気にしてしまって。そうです。わたしは極めて偏見の虜です。「クレヨンしんちゃんなんて、いいオトナの見るもんじゃないやい」って頑なに見るのを拒むクチなんです。
幸いなことに、この作品はあっしの偏見フィルターをすり抜けてくれまして、ありがたいありがたい。この作品は、実は「いいオトナに見せる映画」なんですね。キーワードは、希望、未来、郷愁、家族。これって子供には難しすぎる(オトナにだって結構難しい)か、そもそも子供には縁のないこと。とはいえ、子供が全く楽しめないわけではなく、しんちゃんのギャグや見せ場などサービスシーンはたくさんあります。つまり本作は、昔のウルトラマンシリーズのように、子供向けのフォーマットを利用して普遍的なテーマを語っているのです。この手法って、「どうせ子供向けだから」って油断しているスレた観客には奇襲効果があります。すっかりやられました。ウルトラ繋がりでの連想ですが(父ちゃんがウルトラマンになってゴモラもどきを退治するっていうのもある)、この映画は20世紀の匂いに大人たちがとらわれてしまい町には子供たちだけが残される、という日常生活から始まる異世界話なわけで、昔のウルトラQでよくあったような話でもあるんですね。60年代のウルトラ世界。ああ、懐かしい。
それにしても、懐古趣味というのは非常に強力なもので、そりゃあ、あっしだってこの映画のように20世紀博で昔の生活を再体験できるんなら、通ってしまう方だと思います(最近スカパーを見るようになったのですが、スカパーを支えている層の中にはそんな気持ちがあるんだと前から思ってます。スカパーを見ている人にこの映画はうってつけですぞ)。あっしなら、実写版忍者ハットリ君(白黒の)をもう一度見てみたいなあ。あと、ファンタゴールデングレープも飲みたいし。それから家のまわりに田んぼや舗装してない道がたくさん残っている町にもう一度住んでみたいよう。。。いや、そういう気持ちに単純に浸るんじゃないのがこの作品のいいところ。宮崎駿の作品みたいなアクションシーンはあってもジブリにあるような精神の退行性はここにはありません。生きる混沌たるしんちゃんはそんな甘えた部分をほっといてくれるキャラクターじゃありませんね。
クレヨンしんちゃんをちゃんと見たのは、実ははじめてなんですが(だって、あたしは偏見の塊)、こりゃあ流行るはずだし、PTAに睨まれるはずです(いい意味で言っていますよ)。大人というか権威というかを全く意に介しないしんちゃん。これが流行っているということは、今の子供も昔と変わらないわけだ。子供は今も元気なんだと安心していいんだか、子供は大人の不条理な権威に不承不承従っているんだとかわいそうに思うべきなんだか。
音作りをもっと丁寧にする余地はあるものの、クライマックスでしんちゃんが階段を駆け登るシーンではだだ泣きしてしまったし、デパートの中に隠れているシーンのサスペンスとユーモアの混ざり具合は秀逸だし、しんちゃんのお尻には単純に笑ったし、娯楽作品としての満足度は高いです。
この映画はちゃんと評価されるべきだから、みんな見るべし。このセリフは、決してあっしの歪んだプライドが言わせているのではないですぞ。だって、こんなことを言わなくったって、映画代のもとは十分に取れているもの。
御裁断は(最高☆5つ)
ハンニバル
トマスハリスの原作は、ちゃんと発売と同時に読んでいます。ですから、そもそもこの羊たちの沈黙の続編は失敗であったことはわかっていたのです。ダークヒーローに対する視点が変化するという、ありがちな失敗もありますし(原作ではレクター博士のトラウマが語られたりする。そりゃ、だいなしでしょうさ)、博士の衒学趣味もただのイヤミにしか感じませんでした。一方、新しい悪役サイドの行状は悪趣味の極みです。これは1種の読者サービスとして提供されたのでしょう。トマスハリスの暴走を止めることのできる人は出版屋の中には誰もいなかったのだと推察されます。
リドリースコットはこれを正しく暴走であると認識しました。そこで、問題点を改善すべく、博士の頭の中の描写を捨て去り、不要なキャラクターをカットし、ラストシーンを書き換えたわけです。これらはすべて必要な改変だったと思います。しかし、それでも映画は基本的に原作をなぞっていますし(だから、逆に原作を読んでない人には、よくわからない設定がいっぱい出てくることになる)、ラストシーンの改変のためにレクター博士の恋物語という側面を必要以上に強調しなくてはなりませんでした。また、制作サイドは猟奇性をトーンダウンさせることは許さないですし、ジョディフォスターの影は必要以上にジュリアンムーアの肩ひじを張らせているようです。それに、トマスハリスは映画にも影響力を及ぼすほどの強い存在で、アンソニーホプキンスは仕事だからと淡々と役をこなします。というわけで、でき上がった作品は、できの悪い続編のお手本のようになりました。なんで、こんなのがヒットするのだ?
リドリースコットってきれいな映像を取ることだけを目的とする職人だったのですね。彼は中身を選ばないのでしょうか?そういう意味では弟と似ているところがあるように思います。弟も中身なんてどうでもよくって、音楽にあわせたテンポよくカットされた映像を提示することだけが目的の人だもの。いや、いまになってはじめてスコット兄弟の共通点を見いだしましたよ。これまで気がつかなかった。
私のお気に入りレイリオッタも精彩を欠いていたように思います。あの役なら彼でなくてもできるでしょう。むしろ、もっと神経質そうな役者の方が良かったんじゃないですかね。
それにしても、エンドタイトルが終わった後の最後のアンソニーホプキンスのセリフの挿入は虫酸が走った。この映画の悪趣味さの象徴でした。あーあ。
御裁断は(最高☆5つ)
スターリングラード
ギャラクシー・クエスト
とんぼ返り半回転ひねりの着地に見事成功したような映画。ガメラが(そしてアンブレイカブルが)、存在するはずのないものがもし現実の世界に存在したらというアイデアの映画だったように、この映画も本当ではないとされているものが本当であるためにはというハナシになっていて、しかも、それを本当でないハナシの現実的基盤である俳優を本当でない世界に放り込んでしまうという超ひねり技を見せるのです(そういう現実をぶっ壊す感覚は非常にSF的)。そのうえ、これが不貞腐れた落ち目の俳優達が希望を取り戻すお話になっていて、オタク賛歌にもなっていて、勧善懲悪の物語にもなっていて、あげく宇宙SFにもなっているという。すげえよ、これは。
そういえばカーク船長もどこかの星で異星人と格闘したりしてたよなあ、とか、転送で敵船に乗り込んだりするんだよなあ、とか、いかにもなところがたくさんあって、その筋の人は喜ぶこと請け合い。そうでない人もきっと楽しめる。万人向け。でも、これは普通の人たちに宣伝するのは至難の技なことだ。配給の人たちには御同情申し上げる(だからといって全国ロードショーを避けてミニシアター系に絞られると田舎に住んでいる者は困ってしまうのだが)。
アランリックマンは昔からこういうコミカルな役をときどきやってたから、トカゲヘッド役をすき好んでやってるんだろうなあと思うんだけど、シガニーウィーバーがこういう役をやるのは少し驚きでした。好感度アップ。
御裁断は(最高☆5つ)
ハード・デイズ・ナイト
何を隠そう「ビートルズがやってきた。ヤァヤァヤァ」であります。実はヨメサンが試写会に応募してたのが当たりまして(ここ長崎のいいところは試写会に異常によく当たること)、「明日なんだけど、行く?」ということで、こちとら何の心の準備もなく、グルーピーなビートルズファンのハナシか(「あの頃ペニーレインと」と混同している)、はたまた歴史の影に隠れた五人目のビートルズメンバーのハナシか(これも何かと混同している)と思いながら出かけました。劇場についてみたら、なんのことはないリチャードレスターのデビュー作だったという。評判のいい映画だから、一度くらい教養として見ておきたいものだと思っていたのでちょうどよかった。
で、少し遠くからこの映画を見て思ったことをいくつか。映像感覚溢れる(と言われているから、そういうことにしておく)映画は、後世見るもんじゃない。すぐに真似されて陳腐化してしまう。技術じゃ普遍性は得られないのよ(ガイリッチーとかに聞かせてやりたい)。それから、ビートルズの何が独創的かって、反抗が商売になることを世界ではじめて証明したことじゃなかろうか。リチャードレスターによってカリカチュアされたイタズラの数々、もういい大人であるビートルズの面々が真剣にやっているはずはなくって、彼らも意識的であることは間違いなく、であれば、それは何のためかと言うとそりゃああなた商売ざんすよ。と、これはヨメサンの言だがSMAPにまで綿々と繋がるラインの始祖がビートルズだということなんですな。とはいえ、これは一方で豊かな時代の産物でもあるわけで、ほんとうに独創的だったかと言うと、そうでもないのだが。
それにしてもビートルズの面々の姿勢の悪さや、四六時中ユラユラ落ち着きなく動いている上半身や、ことあるたびに(走って逃げている時にも)あちこちに走らせ互いに交換する視線は、最近の若者とそっくりであることよ。あーあ。
御裁断は(最高☆5つ)
スナッチ
この作品は見ても絶対に損はしないが、見る価値があるのかというと、その辺が微妙だというポジションだな。
僕は、ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズを見ていないので、最初の30分くらいは、可変時間表現や誇張された構図、ねじれたユーモアなどなどを見て、おおこいつは誉めそやされるだけのことはある、と思っていましたが、だんだん単調さに飽きが出てきて、クライマックスには、というか、これはある種のアンチクライマックスなんだろうけど、すっかり麻痺してしまいました。コメディの部分と暴力の部分のかみ合わせがしっくり来てないように思うのは、もう僕のセンスが古くなってしまっているからなんですかね。少し不安を感じてしまいます。
お話は、大きなダイヤの争奪戦と八百長賭けボクシングを成立させるという二つの焦点にあまたの登場人物が群がりぶつかり転がしていって、最後に二つがくっついて終わり、なのですが、登場人物が大勢で話に焦点が二つあるもんで、見ている側はあっちに振り回されこっちに振り回され、もう大変です。これも振り回しにリズムがないために飽きを生じさせているように思います。どこか中盤で、ストーリーが停滞する時間があればもっとよかったんでしょうけど、若手売り出し中の監督にそういう円熟を求めるのは酷でしょうかね。
それにしても、ダニーボイルやら最近の若手で急に注目を浴びる監督って、みんなおんなじような印象です。とんがった映像感覚一点主義。確かにうまいし、おおっと思わせるところも多いんだけれど(この映画も膨大なプロットを破綻なくまとめているわけでたいしたもんだと思いますよ。でも、破綻がないレベルをもう一段推し進めて欲しいんだよな)、別のラインから売り出す人も出てきて欲しいところだなあ。
御裁断は(最高☆5つ)
ハート・オブ・ウーマン
ウェルメイドである。安心してみていられるし、作り手に品を感じることが出来て好もしい。欲を言えばあと30分くらい短くしてればということと、ラストの処理。この映画は、女性が強くなった時代の一つのラブストーリーではなくて、世界の半分しか見てこなかった、いや世界の中のたったひとりの人間である自分の心の中しか見てこなかった男の中の男が、人の気持ちをくみとることの重要性に気がつくというお話である。。ある、べきである。男女の役割が逆転したことを、映画の一番重要なポイントに据えるなんて、一時代前のフェミニストのしそうなことは、この手だれ監督の意図ではないと信じたい。であるならば、この映画のオチをあんなどうしようもないセリフにしたのは間違いで、僕ならプロムのシーンを最後に持ってくる。で、そこはサラッと流して描くけどなあ。ヘレンハントも一緒にプロム会場について行くのもよいかもしれん。そうしたらこの映画の後半の、少々散漫な印象は薄れるように思うんだけどな。
メルギブソンは、リーサルウェポンでは1 から4まで使ってリッグスのキャラクターを徐々に変化させたものですが、今作ではその変化を一気に行ったという感じの演技でした。映画が始まった当初は、ギャグをかましていても目の奥にどっか狂ったところが見えるなあと思っていましたが、後半はおちゃらけ爆発。あ、これってペイバックもそうだったか。あれよりは、こちらの方がキャラクターの変化に必然性があるというものか。しかし、いきなり会議の時に渡された、これまで使ったこともないような女性用品の数々を試してみるメルギブはなかなか優秀な人材であることよ。もっと取り立ててやれよ、社長さぁん。
いやまあ、この映画がリアルな女性心理をとらえていたとして、だとしたら女性ってのは大変な人生を送っているものですな。マリサトメイのような、あんな風に心の中にグツグツしたものを抱えて日々の市民生活を送るのは大変だろうて。ヘレンハントにしたって、ああいうストレスの感じ方してたらしんどいだろうなあ。あげく睡眠不足なら確実に過労になるわな。みんな、一人で心を落ち着かせる術を知らないのか?だから、理解してくれる人を癒してくれる人を求めているのか?それって本当なの?それって依存心とどう違うのさ?
不安の解決を外部に求めることが不安を増幅するんじゃないかと思うんですがね。まあ、いいけど。
御裁断は(最高☆5つ)
キャストアウェイ
年に映画を数本しか見ない人が見れば感動すること請け合いの、正統派のドラマです。でも、どこからどう切ろうとしても、切り口がない。僕には、この作品の存在理由を正当化することは難しいです。まあ、Williamくらいかな。
トムハンクスしか出てない独り芝居映画です。それ以外はあくまで刺し身のつま。トムハンクスは確かにいい俳優で、漂流前と漂流後をうまく演じ分けていますよ。感心する。しかし、もうそれは予測されていること。彼の演技を見ていて、その真面目さに息苦しくさを感じるところもいつも通り(とはいえ、あたしはほとんど彼の映画は見ていないんだが)。ウェルメイドなことは否定できないけど、やっぱり面白みのかけらもない優等生とはつきあいたくないでしょ。Williamだけですよ。人間らしさを感じるのは。
だめだ。語り口が見つからない。なので、今回はこれにて。
御裁断は(最高☆5つ)
アンブレイカブル
私たちは情報が普遍的に行き渡る時代に生きていて、ともすれば「この世にもう何も新しいものはない」とうそぶきがちです。このことはある意味真実ですが、そうでないこともある。そういう時代であるからこそ新しいスタンダードが生じやすく、それゆえに新しい物を産みだす土台が生じてもいる。ゴジラ映画に対して平成ガメラが行ったのはそういうこと、つまりスタンダードの現代的再解釈だったと思うのです。
まあ、それはともかく、アンブレイカブルは観客を選ぶ映画だと思います。年に数本しか映画を見ない人なら、派手なところのない、非常に微妙な表現の上に成立しているこの映画を退屈だと感じる可能性は高い。また、シックスセンスの監督が同じ俳優を使って作った映画だということに過剰にこだわる観客なら、巧妙に張り巡らされた伏線と想像もつかないどんでん返しに対する期待が裏切られたことに対する怒りで真実を見逃してしまうでしょう。実際、この映画のストーリーテリングは非常にストレートです。カーブを待っていたのに、速球を投げられると、ど真ん中でも見逃してしまいがちなものです。しかし、映画に対する先入観が裏切られたときに迅速に反応できる柔軟な感性を持っている人なら、この映画がいかにオリジナルな部分を持っているかが理解できると思います。
正直言って、僕自身も最初は戸惑いました(配給会社もこういう宣伝をしたらいけないと思うなあ。これは傑作に対する侵害ですぞ)。しかし、見ている途中から、これはとんでもない映画であることに気がついて、そう思ってみたらレインコートのブルースウィリスの、なにをするでもないただ立っているシーンが非常にかっこよく思えてくるから便利なもんです。
この映画の良い点は、オリジナルであることと同時に、普遍的なテーマを持ってもいることです。それは「自分を発見すること」や「自分のできることをすること」に対する肯定です。まあ、非常にアメリカ的であると言えるのですが(よく考えたらこの映画はそうでなければならないのですが)、ここはレインコートを着ていることのオリジナリティーのために素直に評価させられてしまいます。いや、しかし、考えれば考えるほど長所が出てきます。すごいです。おそらく、この映画があまり一般受けしないだろうことは、残念です。
ただし、僕にはラストは不満です。あそこは、もっとさらりと描くべきだったと思います。観客の1/4くらいしか理解できないような表現で構わなかったでしょう。ひねくれて解釈すると、監督自身がシックスセンスの成功に足をすくわれたのかもしれません(このために星半個減点です)。まあ、そう思えば観客が誤解するのも致し方ないのかもしれません。それから、サミュエル・L・ジャクソンは大根ではないか、との疑いを今回も抱きました。
しかし、ネタバレしないように書くのも大変だわ。
御裁断は(最高☆5つ)
ファイナル・デスティネーション
夜はこたつのコンセントを抜いてから寝ようと思わさせられる映画。
たまたまこの映画を見た日というのが、日航機超ニアミス事件の翌日で、そこかしこのニュースで如何にこの事件が大惨事の寸前まで行っていたかを繰り返し見ていて、で、あたくし長崎に住むようになってから飛行機を利用する頻度が非常に高くなっていることもあり震え上がっていたんですよ。あたしもインテリざんすから、飛行機が空を飛ぶ原理くらい頭では理解しているざますけども、やっぱり体の芯は受け入れていないのか飛ぶたびにいつも怖いなあと思っているざます。それが、この映画のっけから飛行機恐怖症のつぼをパワフルに突いてくる演出で、もう見ているこちらまで脂汗。やっぱり窓から翼についた汚れを眺めるとイヤーな予感がして精神衛生上よろしくない。
で、主人公のユアンマグレガーもどき君は、立派なことにイヤーな予感に従いパリへの修学旅行(って、そんなものがアメリカにもあるのか?)に出発する直前の飛行機から降りてきます。数人の同級生と先生を道連れにして。そしたら、あーた恨めしそうに眺めている同級生達の目の前で、飛行機爆発しちゃうじゃないですか。助かった同級生達、主人公に感謝の言葉もなく、友人が死んだのはお前のせいだとばかりの態度をとるのは、さすが生き馬の目を抜くアメリカといいましょうか。まあ、とにかく運命の歯車が狂ってしまったわけで、その後まるでつじつま合わせのように生き残った人たちが不慮の事故を遂げ始める。タイムパラドックス物じゃないんだから別につじつま合わせる必要はないと思うんだが、どうもそうではない人がいるらしい。それは誰かって?し、し、死神です。
いや、笑っちゃあいけない。これが思いの外面白い。死神(とはいえあからさまには出てこないのがおくゆかしい)は実際に人に手をかけるのではなくって、事故をおぜん立てするんですけど、そんなに都合よく物事がおこるかいな!っていうような偶然の連続で起こりそうもない事故が起こるという話になっています。しかし、どんな偶然でも、そんなんあるかいというようなことでも死神が介在しているんですから御都合主義とのそしりを受けることもないというのは便利なものです。いや、超ニアミス事件の経過からすると、偶然の連続ってのはそれほど御都合主義ではないのかもしれないかもしれないけど。
死んでいくときの表現が少し品がないのが玉に瑕です。これなら、実際に死ぬところを描写しなくても十分怖いように思います。なんせ今から死ぬとわかっている人の行動を見ていると、なにげない動作の一つ一つが「あ、これで死ぬんやろか」と思わされて怖いのなんのって。古典的なサスペンスですね。それにしても思えば我々の日常生活にはすぐに死に結びつくようなものがたくさんあるんだなあなんて、マジメに受け止めてしまうくらい怖かった。
御裁断は(最高☆5つ)
13デイズ
この映画は、キューバ危機を若き大統領とそのチームはいかにして乗り切ったか、というお話です。もちろん、皆さんとっくに御存知のお話で、すんでのところで危機は回避されることはわかっているのだけれども、やはりそこは事実の重み。面白い。みててドキドキしてしまう。ケネディって人は、こんな映画になるようなすごい事件を実際に、しかも主役として体験していて、あろうことかそのすぐ後に、これも映画になるような暗殺事件のターゲットになったわけです。たった40数年の生涯で、事実の重みだけで面白い映画を作れるような事件に二度も出くわしているわけだから劇的な人物です。
しかし、この映画はそんなケネディが主役ではなく、もちろん線の細い弟のロバートケネディが主役でもなく、大統領補佐官のケビンコスナーが主役なわけです。ケビンコスナーという人、この事実に基づくドラマの中で、劇的の体現であるかのようなケネディを食ってしまうような存在感を出せるほど迫力のある人ではありません。かといって、群像劇の一人になって自分の役回りを堅実にこなすことが出きるほどの器用さもありません。まあ、いってみれば、よくも悪くも極め付けの大根役者だというわけです(ということは、至極全うなスターでもあるということですが)。今回、よくわかりました。ちなみに、けなしてるわけじゃないですよ。ただ、ちょっとミスキャストだったかなあと思わんでもないようなあるような。
で、またキューバ危機の話に戻りますが、こうして映画を見てみて、あらためて「よく回避できたもんだ」と思います。この状況になったら戦争は必至というのが歴史は繰り返すって事だなあと思いながら、いかにフルシチョフが傑出した人物だったかと、ソ連側ではどんなドラマがあったのか一度くらい知りたいものだと思いましたね。
御裁断は(最高☆5つ)
ダンサー・イン・ザ・ダーク
(ここは前振り)私たちは、お金を払って映画を見ているかぎりにおいて、誰はばかるところなくお客の立場を主張できるわけです。で、お客には作り手の伝えたいことを曲解する自由もあると思うのです。なので、今回は曲解であることは重々承知の上で、書こうと思います。
(ここから本文)このお話はきわめて反映画であります。ぶっちゃけて言うと、現実が辛いからって言って空想の世界に耽っているとひどい目に遭うよ、というお話なのです。こんな作品を見てしまうと、カンフー映画を見た後は、気に入らない相手がいるとついついアチョーとか言って相手をやっつける空想をしてしまう自分のことが、とても愚かな人間だと思えてしまいます。
主人公は、気の弱いウサギのような顔をしたビョークで、仕事をしてお金を貯めなきゃいけないため目がほとんど見えないことを隠して働き、周囲の人に迷惑をかける自己中心的な性格の人です。で、ビョークを取り巻く人々も、彼女の行為の危険性(目が見えないのにプレス機を扱っている)を知っていながらそれを止めるどころか応援する人だったり、妻の浪費を止められなくて隣人のお金を盗む人だったりで、子供の時に近くにいれば、きっとよい反面教師になっていたでしょう。そりゃああんたらの人生に辛いことが多いのも自業自得だわ。
で、人生の辛さを紛らわすのがミュージカル。ビョークは素人ミュージカルにも参加するし、いつどんなときでも空想のミュージカルの中に入り込む。これが彼女の唯一の幸せ。ミュージカルには辛い現実は存在しない。
もちろん、そういう行為は生きていくうえで重要で、映画やミュージカルが我々に与えている救いについては、既にいろんな映画が語ってくれています(例えば、「カイロの紫のバラ」はあからさまですし、最近では「ライフ・イズ・ビューティフル」もそうでしょう)。しかし、今作ではビョークは、シビアな現実と渡り合わなくてはならない場面でも、いや、そういう場面だからこそ空想に耽り、そうして事態をどんどん悪化させていくのです。この映画で描かれていることは避ける事が可能で、その意味でこのお話は悲劇では全くないのです(この点が、「ライフ・イズ・ビューティフル」などと決定的に違うところです)。まともな批判精神を持っている人ならば、この映画から導く結論は、「現実が辛いからって言って空想の世界に耽っているとひどい目に遭うよ」ということになるでしょう。しかし、こんなふうに解釈されていいのかい?作り手さんよ?
いや、僕だってわかっていますよ。作り手が言いたいことは、結局のところ、空想は永遠を手に入れることで現実を超越したんだってことでしょ。でも、それはビョークにとってだけのこと。ひとりよがりな勝利ですよ。それでいいってんなら、人生はなんてラクチンなんだ。
さて、この映画では、現実部分は手持ちカメラでカットも割らず色彩もくすんでいます。一方、空想部分は、安定したショットを積み重ねきちんとカットを割り色彩も豊富で鮮やかです。つまり現実は見苦しく、空想は美しくなるように意識的に作られているのです。これは作り手の言いたいことと一致するのでよいといえばよいのですが、お客の側としては嬉しくない手法です。現実シーンは見ていて気持ちが悪くなってしまった。とはいえ、最初に空想シーンになったときは感心したことは言っておかないといけませんね。
御裁断は(最高☆5つ)
ホワット・ライズ・ビニース
初期のデ・パルマのようにヒッチコックフォロワーは、往々にして肩に力が入りすぎて息苦しいサスペンスを作ってしまいます(最近のデ・パルマは、スネークアイズなど、その辺がこなれてきているのでよいのですが)。才人ロバートゼメキスと言えどもそれを免れることは出来なかったようです。全編ミシェルファイファーの血管立てた神経症的演技を見ていると、こちらも息苦しくなります。それに、怖いシーンがインディジョーンズ並に連続つるべ打ちだし。
ヒッチコックからの影響を指摘するのは非常に簡単で、裏窓、レベッカ、サイコ、断崖などが思いつくところです。また、観客をミスディレクションするやり方だとか(あれだけ予告編でネタを割っているから、これくらいは書いても大丈夫かしらね)もよく研究されていると思います。あざといショック演出も含めざるを得ないのはこの時代だからしょうがないとしても(音楽はうるさすぎるが)、それ以外にも、ちゃんとヒッチコック言うところのサスペンスフルな状況設定を作り上げていくクライマックスは非常に好感度が高かったです。
それから、ヒッチ映画のファンは明かりがつくまで席を立たないように。エンドタイトルの音楽はバーナードハーマンの幽霊が作曲したのかと思うくらい、雰囲気抜群だから。
ところでミシェルファイファーのダンナがハリソンフォードなのですが、遺伝学者という設定です。で、既に死んでいる父親が高名な数学者で、ハリソン君は父と間違われることにコンプレックスを感じている小心者と言う設定。似合いません。どうみても正義の味方なんだから、あなたは。キャスティングのユニークさを求めたのかもしれませんが、以前にもあの作品があるじゃないですか。だから、二番煎じでもある。
それにしても、高名な科学者として認知してもらいたければ、いくら怪奇現象が起こったとしても悪魔祓とかまじめにやっちゃあダメでしょ。そりゃ、あんたいつまでたっても二流だわ、と自分のことはさておき突っ込んでおきましたから、御安心を。
御裁断は(最高☆5つ)
バーティカル・リミット
これって収支が合わないんじゃないの?
そのうえ、どうにもこうにも大ざっぱなストーリー展開で。悪天候がわかっているのに登山を強行して、それで遭難しているんだから救助隊もごくろうさまなわけで、主人公の相変わらずパッとしないロビンことクリスオドネル以外は、何のために助けに行ってるんだか。途中に襲ってくる危機にしたって、そんなもんで危機に陥るなよ、ちゃんと手を打っておけ、バカ!とつい罵りたくなるようなものばかり。登場人物はビルパク以外は精彩がないし(しかし、ビルパクも役の幅が本当に広い。なんでもござれだな)、見せ場の大半は予告編で何度も何度も見たものだし。この映画をけなそうと思ったら、千夜一夜でも足りないくらいだ。
なのにさあ、結構見れちゃうんだなあ、これが。人間の落ちることに対する恐怖は、よーーーーーーっぽどらしい(それとも、僕だけなのか?高所恐怖症だからか?)。お話自体の遡及力はクリフハンガーと比べて全然なのだが、画面づくりのリアルさで勝っているもんだから、クリフハンガー並に見ていられるんだから、本当に不思議だ。映画を見ている最中はハラハラドキドキで、終わってから「?」って思うんじゃなくって、見ているときから、「おいおい、そりゃないやろ。アルマゲドンやあるまいし」と思っているにも関わらず、最後まで見れちゃうんだよなあ。何度も言うけど、不思議だ。
ベースキャンプが村状態になっているわけだから、そこには立派な人間社会が成立していて、こっちの方が題材として面白いのやもしれないなどと見ている間に思っていました。殺人事件でも起こさせて、山岳アクションに引っ張っていくってストーリーはどうですかね?(って誰に向かっていってんねん)
御裁断は(最高☆5つ)
ピッチブラック
この手の良質なB級映画にふっと出くわせることが映画館通いの醍醐味です。太ったトラボルタのような顔をした凶悪犯を護送中の旅客宇宙船が、事故のためにある惑星に不時着し、犯人は逃亡。生き残った乗客は犯人の影におびえるも、実はその惑星には恐るべき生物が生息しており、云々かんぬん。さあ乗客達は生き残れるのか?というコンエアーとエイリアンとエイリアン2をごちゃまぜにしたようなお話。いや、むしろ宇宙を舞台にした動物パニック映画に近いのかもしれない。人間は怪物に対してほとんど無力で、エイリアンシリーズのように戦いを挑むわけではないですから。観客はほとんどの時間を宇宙船のパイロットのネエチャンの立場に同化して過ごすわけですが、実は本当の主人公は凶悪犯であるという一ひねりが、よくできた娯楽作にスパイスを添える。
設定が上手です。舞台となる惑星は3つの太陽に照らされていて、22年に一度だけ日食のために闇に包まれる。で、そのときに立体シュモクバエみたいな翼竜みたいなものが飛び回るわけですが、ということは怪物は暗い所にしか現れない(ついでに光を浴びると焼け死んじゃうという吸血鬼の設定もある。エコーロケーションを行うのだからコウモリでもあるし)のです。で、見えないほど怖いものはないわけで、SF的設定が映画としての効果を上手に作り出しているわけです。これは、低予算故の工夫なのでしょうが、ならば低予算をこそたたえましょう。大金を使っておどろおどろしい怪物をお見せするのが能ではありますまい。低予算とは言え、決して手を抜いているわけではなく、未知の惑星の世界構築は緻密に行われているので、安心してみていられます。なので、観客を怖がらせる方法がショック演出しかないという問題点には目をつぶりましょう。
キャラクター造形も一通りあり人物配置も工夫してあります。この手の映画では、誰をどのタイミングで舞台から消すかが腕の見せ所になりますが、適度の緊張感を保つような人物配置を最後まで維持し、観客が心寒くなるような人物の消し方もせず、なおかつ少々の驚きも加えてあります。やっぱり、これも安心してみていられるわけです。
最後に、生物屋として見ていると、面白いところがいっぱいありました。具体的に書くとネタバレになりそうなのだからやめますが、このへんも世界構築がしっかりしているなと感じられる点でありました。と、べた褒めに近いことを書き連ねてきましたが、星は最高点というわけではなく、
御裁断は(最高☆5つ)
オーロラの彼方に
タイムパラドックス物は、定義からして、考えはじめると矛盾が噴出してくるものです。多元宇宙解釈に走るなら整合性をきちんと取ることも出来ますが、その場合、情報なり物質の遡及が起こるたびに新しい宇宙が現れるので、ハリウッド風の一貫したストーリーを語ることはできなくなってしまう(話がそれますが、ランローラランは多元宇宙物と解釈することもできるわけですね)。SF小説には、そういう筋立てのものもあって、例えばJPホーガンと言う人の「未来からのホットライン」という話(割りと面白い)はそうなっていました。このお話と、「オーロラの彼方に」の違いは、タイムトラベルに伴う世界の再構築(このアイデアを映画にした点は評価しますが)が起こったときに登場人物の記憶が失われるかどうかなのです。厳密に多元宇宙にするなら、「未来からのホットライン」のように記憶は失われるべきですが(ちなみに、この小説はそこを逆手にとって、多元宇宙を越える強い感情の存在をほのめかすことで感動を誘うという手に出ています)、この映画では都合のいいことに登場人物だけは記憶を失わないようです。つまり二重記憶になるわけですね。もちろん、そうでないと、アイデンティティーが定義できないわけで、ハリウッド映画ですから、アイデンティティーという難しい問題には踏み込まないということで理解できます。
しかし、この二重記憶があるために、つじつまのあわなさ度合いがより目立つ結果になります。しかも一方ではこの映画はサスペンス調でもある。サスペンス調というのはリアルさがあってなんぼのものですから、つじつまのあわないストーリーとはソリが合わないですね。で、またタチが悪いことにお話をサスペンスの方に持っていくために登場人物の行動まで不自然になっていくんだから。見ていてなんとも収まりが悪かったです。
まあ、久しぶりにデニスクエイドを見ることが出来たのでよしとしますか。いや、だめだ。
御裁断は(最高☆5つ)
エクソシスト ディレクターズ・カット版
このディレクターズ・カット版、巷の評判はあまりよろしくないのですが、私のようにオリジナルの公開時はまだ子供で、少し大きくなってからテレビで観ただけの人にとっては、劇場で観れる機会を与えてくれるだけでもありがたいものです。そりゃあ、公開延期の知らせを聞いたときは大暴れしそうになったものですが、予想以上に早く公開にこぎ着けたはうれしいかぎりです。
現代の観客が、この作品に怖さを期待して見に行ったら、肩すかしをくらったような気になるかもしれません。ショック演出などは現在の水準からすれば非常に少ない。かわりに濃密に描かれているのは、やはり人間ドラマ。この作品は、カラス神父の中にある強い心と弱い心の戦いを描いた作品なんですね。オカルト現象も悪魔祓も装いに過ぎない。でも、やはり描かれているのは神と悪魔の対決そのものであるという。この作品は見る側に宗教心を要求しますね。そのつもりで見ないと、全然面白くないでしょう。
私は根がマジメなもので、こういう映画にちゃらけた突っ込みはできません。よって、今回はこのへんで。しばらく考えることにします。
御裁断は(最高☆5つ)
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