ダンサー・イン・ザ・ダーク
(ここは前振り)私たちは、お金を払って映画を見ているかぎりにおいて、誰はばかるところなくお客の立場を主張できるわけです。で、お客には作り手の伝えたいことを曲解する自由もあると思うのです。なので、今回は曲解であることは重々承知の上で、書こうと思います。
(ここから本文)このお話はきわめて反映画であります。ぶっちゃけて言うと、現実が辛いからって言って空想の世界に耽っているとひどい目に遭うよ、というお話なのです。こんな作品を見てしまうと、カンフー映画を見た後は、気に入らない相手がいるとついついアチョーとか言って相手をやっつける空想をしてしまう自分のことが、とても愚かな人間だと思えてしまいます。
主人公は、気の弱いウサギのような顔をしたビョークで、仕事をしてお金を貯めなきゃいけないため目がほとんど見えないことを隠して働き、周囲の人に迷惑をかける自己中心的な性格の人です。で、ビョークを取り巻く人々も、彼女の行為の危険性(目が見えないのにプレス機を扱っている)を知っていながらそれを止めるどころか応援する人だったり、妻の浪費を止められなくて隣人のお金を盗む人だったりで、子供の時に近くにいれば、きっとよい反面教師になっていたでしょう。そりゃああんたらの人生に辛いことが多いのも自業自得だわ。
で、人生の辛さを紛らわすのがミュージカル。ビョークは素人ミュージカルにも参加するし、いつどんなときでも空想のミュージカルの中に入り込む。これが彼女の唯一の幸せ。ミュージカルには辛い現実は存在しない。
もちろん、そういう行為は生きていくうえで重要で、映画やミュージカルが我々に与えている救いについては、既にいろんな映画が語ってくれています(例えば、「カイロの紫のバラ」はあからさまですし、最近では「ライフ・イズ・ビューティフル」もそうでしょう)。しかし、今作ではビョークは、シビアな現実と渡り合わなくてはならない場面でも、いや、そういう場面だからこそ空想に耽り、そうして事態をどんどん悪化させていくのです。この映画で描かれていることは避ける事が可能で、その意味でこのお話は悲劇では全くないのです(この点が、「ライフ・イズ・ビューティフル」などと決定的に違うところです)。まともな批判精神を持っている人ならば、この映画から導く結論は、「現実が辛いからって言って空想の世界に耽っているとひどい目に遭うよ」ということになるでしょう。しかし、こんなふうに解釈されていいのかい?作り手さんよ?
いや、僕だってわかっていますよ。作り手が言いたいことは、結局のところ、空想は永遠を手に入れることで現実を超越したんだってことでしょ。でも、それはビョークにとってだけのこと。ひとりよがりな勝利ですよ。それでいいってんなら、人生はなんてラクチンなんだ。
さて、この映画では、現実部分は手持ちカメラでカットも割らず色彩もくすんでいます。一方、空想部分は、安定したショットを積み重ねきちんとカットを割り色彩も豊富で鮮やかです。つまり現実は見苦しく、空想は美しくなるように意識的に作られているのです。これは作り手の言いたいことと一致するのでよいといえばよいのですが、お客の側としては嬉しくない手法です。現実シーンは見ていて気持ちが悪くなってしまった。とはいえ、最初に空想シーンになったときは感心したことは言っておかないといけませんね。
御裁断は(最高☆5つ)