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ラスト・キャッスル
一般に、人は高い地位につけばつくほど、質の高い仕事を遂行することを要求される。こんなとき人は、果たして自分にそんな事ができるのだろうかという不安にかられるものだ。普通その不安は仕事をうまくこなしていく中で解消されていくものだが、時に人は自分の能力を越えた地位に就いてしまうことがある。そうすると、当然仕事ははかどらなくなり、不安はなくなるどころか逆に強まりつづける。そうなれば、その人に残された道は、その地位に伴う権威を利用して他人に服従を要求することで、現実から目を背け不安を紛らわせること以外になくなってしまう。こうして、これまで温厚一筋だった人が突然権威主義の塊に豹変するのである。
この映画は、そんな無能な管理者(あからさまにサリエリであると表現されている)の下に将たる器の人物が置かれれば何が起こるのかを描いている。ロバート・レッドフォード扮する将軍は、必然的に戦いを主導していくことになるのである。これを無駄な戦いだとか、もっと穏やかな解決方法があるはずだ、と言う人がいるなら、その人は人間性に関して勉強不足である。利害の対立から発生する問題ならば交渉によって解決する事も可能だろうが、無能な管理者の心の中に存在するこの問題に対しては、巻き込まれた不幸を呪いつつ、自分の心の健康を守るために何の得にもならない戦いを仕掛けなければならなくなる。ある意味守るために攻撃せざるを得なくなるのだ。
この映画を見ていると、ロバート・レッドフォードが理想主義者であることがよくわかる。昨今全く流行らなくなった「あるべき姿」が、この映画の中で衒いもなく語られるのだ。20−30年前にはこういう映画が良く作られていたような気がする。善と悪の描き方もなんだか古くさい。まあ、しかし、たまにはこんな映画が公開されるのも良いのではなかろうか。「あるべき姿」を見失って、自分の損得勘定だけで生きていくのもつまらないものだ。そうではないですか?
御裁断は(最高☆5つ)
チェンジング・レーン
宣伝では、まるでベン・アフレックとサミュエル・L・ジャクソンの男と男の意地のぶつかりあい話という、フランケンハイマー物ではないかと誤解しそうな扱いをされているのだが、オープニングクレジットを見たら、ウイリアム・ハートは出てるし、シドニー・ポラックは出てるし、トニコレは出てるし、あげくにアマンダ・ピートまでと、曲者ぞろいの豪華共演陣が揃った分厚い人間ドラマであった。それにしてもサミュエル・L・ジャクソンはとんがったモーガン・フリーマンかはたまたモーガン・フリーマンが上品なサミュエルかといった感じだが、そういえばちょっと前にハイクライムズでもモーガン・フリーマンがバーボンのグラスを前に悩んでいるシーンがあったなあとか、そういえばあの映画にもアマンダ・ピート出てたじゃん、これって今はやりのセレンディピティってやつぅ?とか思ったり、ウィリアム・ハートは何しに出てきたんだと思ったり。
最初はベン・アフレック演ずる能天気チンピラ弁護士のあまりの身勝手さに、いけいけサミュエルこんなやつ主役にさせておくことない!と思っていたものだが、後半「己の悪に直面してはじめて、自覚的な善に目覚められる。ただしそれは無邪気なものではない」というテーマが立ち現れるにいたって(磔のキリストを出すのはやりすぎと思わんでもないが)、これはやはりベンが主役であることを納得。はまり役であった。それにしても、この映画は女性はどいつもこいつもロクなキャラクターじゃなかったが(サミュエルの嫁にしても不必要にかたくなだし)、なんといっても最悪なのはシドニーポラック嫁だ。ああやって、人間関係的に危険なシチュエーションでその危機をまったく存在していないかのように振舞う人ってのは世の中にたくさんいてリアルなんだが、おじさん頭に来ちゃったよ。
しかし、メリケンの銀行では不正アクセスがあっても、そのコストを全部客に転化するのかね。そんなことしたら客は不正アクセスに直接対処することなんてできないんだから、ハッカー天国になりそうなもんだが、というか銀行が自作自演でハッキングすることだってできるじゃないか。いくらなんでも無理な脚本じゃないかしらと思わんでもない。
御裁断は(最高☆5つ)
ザ・リング
貞子の何が悲劇だったかといって、アナログ時代に生まれたもんでビデオテープにしか念写できなかったことだなあ。アナログコピーは必ず劣化するのですよ。
(前にも一度書いたが)日本映画が生みだしたゴジラとならぶ大スター貞子が、そのゴジラの後を追ってハリウッドでリメイク。ならここは、ハリウッドがどのように貞子を料理したのか是非ともこの目で確認せねばならぬ。というわけで見てみた結果が上の感想なのである。それにしても、リングの原作も日本で作られたオリジナルの映画も見たことのないアメリカの観客が、この話を見て納得がいくのだろうか?この映画、お話の重要な部分の説明をかなりはしょっている。あのビデオが念写の産物であることは一応ほのめかされているものの、明示されているわけではない。また、山村志津子も超能力者であるがゆえに、それを上回る能力をもつ貞子が生まれたという設定が失われていて、貞子がいったい何者なのかが曖昧なままである。さらに、例の井戸はなんなのか、精神病院との位置関係はどうなっているのかもまったくわからない。それから、「リングの呪いはある行為を行うことでとけるのだが、主人公たちにはその行為がどのようなものかわかっておらず、だから彼らは必死に貞子の謎を探っているのだ」という設定がまったく説明されていない。ということは、主人公たちの動きに何ら説得力がないわけで、これは致命的であることだ。この映画は、表面的には原作ともオリジナルの映画とも良く似ているが、内容的には、原作の面白さである緊密に構成された論理性をほとんど失ったものに成り果てている。まあ、恐怖映画のイメージとしては、ボリュームアップが図られているのだが、これはあくまで表面的なことであって、ストーリーの論理が明示されていなければ普通は観客は「????」としか感じられないものである。
あと、もう一つ重要な改変は高山竜司である。高山竜司という特異なキャラクターは、ある意味でリングシリーズの論理性の象徴なのだ。ところが、このハリウッド版では、高山竜司に相当するキャラクターが、底の浅いただの軽薄君なのである。これでは、お話を貫く硬い論理性など、望むべくもないのは当然といえる。あげく、このキャラクターは主人公ナオミワッツの昔の男で子供の父親だったりする。もう論理のかけらもなくて、感情のみの世界になっているのだ。だいなし。ひょっとして、ハリウッドの人たちは、高山竜司がいかにこの話の肝であるかわかってないのではなかろうか。まさかとは思うが、原作も読んでいないとかじゃないだろうな。
まあ、すでにリングの世界に原作なり映画なりで触れた経験のある人は、今作を見る必要はまったくない、と言ってもそれほど無茶じゃないと思うぞ。
御裁断は(最高☆5つ)
プロフェシー
まあ一般トンデモである。妻が事故の前に見たものは何か?どうやってギアさまは一時間半で600キロを移動できたのか?そして蛾男の正体と目的は何なのか?謎である。予告編を見たときから、「おお、なんてトンデモな謎だ」と思っていたら、ほとんどの謎は明らかにされないまま映画が終わってしまった。なんてことだ。
じゃあ、他の面で映画を楽しめるかっていうと。。。ギアさまは、妻と新居を購入した帰り道、交通事故で妻を無くしてしまうのだけど、その心の傷がいまだ癒えず、事故のカギを握る蛾男の謎を追っているわけだ。ギアさまがトラウマから立ち直る過程を見て感動しろってことかしら?しかし、、それってシャマランじゃん?しかもシャマランより下手ジャン?
しかし、こないだからサインといいこの作品といい、超常現象映画が続いているが、思えば子供の頃はこの手の話が大層好きだったのだ。すっかり忘れてしまっていたが、こうして見せ付けられるとやっぱり今でも好きなようでついつい、いろいろ検索してしまったり、今は原作を読んで(ただいま故あって一人暮らしをしているもので)、コトンとかいう物音がどこからか聞こえてくるたびに震え上がっている毎日である。窓の外から赤い目をした毛むくじゃらな物が覗いていたらいやだよなあ、ってこれじゃサインの感想と一緒やん
御裁断は(最高☆5つ)
トリプルX
この作品、巷間非常に評判がいいのだが、どこがよいのかというと、007の現代風再解釈にあるという。タキシード着てドライマティーニを飲むのではなく、刺青をしてアンダーグラウンドの世界に住む野郎が世界を救うところが新しいのだ、と。現代の観客の共感を生むのだ、と。
とすると、私はもう観客としては時代遅れになっているということなのだなあ。困ったことに、ちーとも共感しなかった。どうもヴィン・ディーゼルのたれ目顔からは緊迫した雰囲気を読み取れなく、「なんだそれならボンドと同じで余裕綽々じゃんよ」って感じてしまったのですね。皮だけ被せ変えただけに見えたと言うか、違いというより類似点のほうが目に付いたのです。いや、秘密兵器が出てきたり、寝返るボンドガールが出てきたり、秘密基地での攻防戦があったりとかの筋立て上の骨格を引き写すのは全然かまわないと思うんだけど、キャラクターの感情部分までボンドと一緒にすることはあるまいに。わしみたいな老いぼれの観客には、行儀の悪いボンドにしか見えんかった。行儀の良し悪しがボンド映画の本質ではあるまい?
アクションスペクタクル映画としては、いや、ボンド映画としては、まったく不満のない仕上がりなんだけど(エクストリームスノーボードのシーンはちょっと引っ張りすぎのような気もしないでないが)、いかんせん期待が大きすぎた。東宝東和の配給だって言うことで割り引いて考えるべきだったかな。
しかし、やっぱり楽園はボラボラだよなあ。
御裁断は(最高☆5つ)
スズメバチ
おフランス製のアクション映画。いやあ、ハリウッド風アクション映画といってもやっぱりおフランスの香りでして、見終わると人生の苦さを噛み締められる。まあ、この映画とダイハード、シュリ、ホワイトアウトをちょっと比較してみましょうよ。ダイハードからは、悪いもんは悪い正義は勝つぜスカッパレーっていう明るさを感じるのに(誇張あり)、ホワイトアウトからは、あいつらが悪いんだ!ってわめくだけという後ろ向きさを感じ、シュリから感じるものは情念というか業の深さというか、そんなもの。アクション映画といえども、お国柄ですなあ。きっとイタリア映画なら、壮絶な撃ち合いのあとに、「おお、あのネエチャンのケツはすばらしいっ」って気持ちに浸れるに違いない。
お話は、孤立包囲された要塞で、多勢に無勢の状況の中、援軍が来るまでいかに持ちこたえるか、というありがちなもの。敵はそんなに賢くなくって、淡々と押してくるだけで、簡単に落とせそうな砦(いや単なる倉庫なんだが)もなかなか落ちない。ひたすら寄せては反撃されて死体が増えていく敵だが、後から後からあらわれるのだけが強みだ。冷静に考えれば、いいのかそれで?と思うが、やはりアクション映画で孤立無援のシチュエーションは強い。そこに至るまでのお話の運びがちょっともたつくような気がしないでもないが、アクション映画としては見れるものになってます。いいんじゃないでしょうか。
御裁断は(最高☆5つ)
クイーン・オブ・ザ・ヴァンパイア
魔の道のものが、世をしのぶ生活にあきたらず、ロックスターになって世を統べようとする。それって、ゴスだなんだと気取ってはいるが、 デーモン小暮じゃん?記者会見で「ええっと、あくま、、もとい、吸血鬼は人目には触れないものだと思うのですが、こんなところに出てきてもよろしいのでしょうか?」とか聞かれたりして。。。閣下じゃん?
吸血鬼映画に外れ無し、であります。で、それはなぜかっていうとお約束がしっかりしているからなのだ、というのは前にもどこかで書いたような気がします。ということは、逆に、お約束をちゃんと守らなければ吸血鬼映画といえども外れうるのであります。で、このお話、吸血鬼の側から描かれていますから、人間が吸血鬼を倒すためのお約束の数々はほとんど意味をなさない(もっというと、吸血鬼という記号だけが必要なのであって、吸血鬼が主役である必要もない)。うーむ、これでは。。。そのうえに、そのうえにですぞ、吸血鬼が日の光を浴びても平気なのである。しかも、その理由が強大なパワーの持ち主だからってことだけ。あげく、このような重大な約束破りがストーリー上他の部分とまったく関わりをもたない。はぁ?と何度も聞き返したくなったよ。
主人公はそのデーモン小暮ですが、もう一人人間側の主役で閣下にかまれたい女性がいまして、こいつがまた言っちゃあなんだが、あまり美人とはいえない人で。吸血鬼と結ばれるのは処女と決まっているわけだが、ひょっとして純潔性と女性の魅力を背反するものだと解しているのか?作り手たちは。で、この二人が別々にモノローグしてて、さっぱりどこに話の焦点があるのかわかんなくって、そのうちにアリーヤさんが現れてすっかり場をさらっていくもんだから、ますます誰が主役なのかわかなくなって、もうハチャメチャ。アリーヤさんは禍々しくってすごいんだけど。すごいよ。あと、レナオリンがやっぱり化け物でちょっとおかしかった。
と、突込みどころは多いんだけれど、そこそこ面白かった。原作を読んでみたらもっと面白いのかもと思った。
御裁断は(最高☆5つ)
ロード・トゥ・パーディション
サム・メンデス先生は前作で父の復権話を描いたわけだが、今度も父についての話。しかも、3つの父子話が描かれる。で、前作の、少し斜に構えて、でも優しいタッチから、今作は真っ向勝負のストレート。風格あふれるタッチで、子に制約される父の話を描くのである。3つの父子話はどれも子のせいで親が破滅する話になっていて、父親ってのはああいうものなのかと勉強になるが、子供に取っちゃあ、それは幸せなことなんだろう。
しかし、主役父子の関係性の変化が、本来この映画で最も重要であるはずだと思うのだが、前半で父子のギクシャクさを丁寧に描いていないものだから、そのへんがいまいち伝わってこない。代わりにサブストーリーであるはずの二つの父子話(一つは本当の父子。もう一つは精神的な父子)のほうが、ずっと印象的になっているのである。まあ、別にいいんだが。そういう意味で言うと、この話はトム・ハンクスが子供でいることよりも父親でいることを望む話であることだ。鶏口となるも牛後となるなかれってことだな(本当か?)。あと、この泣かせんという意図ありありのラストは感心せん。お話上、テーマ上も不必要なはずだ(子供をピュアなままで置いておかせるという表現は他にもあるはず)。前作であれだけの才気を見せた人間がこんなありきたりなラストを作ってはいけない。
さて、トム・ハンクスが泣く子も黙る根っからのワルだっていう設定は、ベンアフレックがCIAの分析官役をやるくらいミスキャストだと思うのだが、一方でポール・ニューマンは、ハスラー2からまだ15年しかたっていないのに、驚くばかりによぼよぼになっていて、でも神様のような演技である。
すごいよ。ちょっと、死ぬ前に早くアカデミー助演男優賞やっとけよって感じだ。で、ジュード・ロウは河童猫背蟹股と(ぬえか、お前は)お嬢様方垂涎のところを見事に肩透かししているわけだが、単にお話を転がすための役にすぎないので、損な役回りである。しくったな。あと、ジェニファー・ジェイソン・リーはますますお化けみたいなんだが、最後の出番のショットは泣けたぞ。母親って言うのは、ああいうものなのか。私が母親になるわけではないが、勉強になる。
御裁断は(最高☆5つ)
サイン
ミステリーサークルといえば、UFOである。思えば私は子供の頃、学研の「空飛ぶ円盤の不思議」とかなんという本で、怪光線に焼かれたアメリカ人農夫の黒焦げ写真とか見せられて戦慄していたものだった。幽霊なんかよりずっと怖かったのだ。
今、つらつら思い返してみるに、なぜUFOものが怖かったかといえば、相手が何を考えてるんだかさっぱりわからないところだったのではなかろうか。グレイ型宇宙人とかご丁寧に瞳孔が無くって、表情が読めないようになっている。当然だが、彼らについての情報はほとんどないわけで、地球に来ている意図などわからない。コミュニケーションできない相手ほど怖いものは無いのだ。日本には空飛ぶ円盤が降りてこれるような誰もいない広い土地が少なくて、本当に良かったよ。
と、こういうのは、この映画とはあんまり関係ない話。シャマラン監督のこの作品は、例によって非常に緊密な構成で(一部には、そんな無茶苦茶な話があるかい、と思う人もいるようだが、それを言っちゃあおしまいよ)、しかも映画のテーマ自体がその語り口と一致しているという、私のような技法重視の人間をひれ伏させるに十分なものである。こういうテーマを扱う事によってどんなトンデモストーリーでもオッケーにしてしまうのである。シャマランおそるべし。言いたかないがヒッチコックに勝るとも劣らぬ。もう、ワンツースリーで私は完全にノックアウトされてしまった。
「シックス・センス」「アンブレイカブル」そして今作と、いずれもB級映画の枠組みを借りた家族の話である、というのは既に語り尽くされているのだが、今回は主役がブルース・ウィリスからメル・ギブソンに変わったという事で、趣が少し違う。メルギブは基本的には狂気の役者であるからして、映画全体のテンションがかなり高い。で、最終的にその狂気が癒されるわけだから「リーサル・ウェポン」一作目のリッグス再来である。シャマランもそれを意図してのキャスティングだとか。
いや、それにしても、ふっと窓の外を見て、グレイ型宇宙人がいたりした日にゃあ、もう。
御裁断は(最高☆5つ)
アバウト・ア・ボーイ
「ブリジット・ジョーンズの日記」の男性版という触れ込みだが、下手な宣伝も休み休みにしてくれないと困る。危うく、見ないで済ませるところだった。よく見たらタイトルで謳ってるじゃないか。子供についての話だって。「ブリジット・・・」のような登場人物に何の成長も無い自己肯定型ファンタジーとは違う。ヒュー・グラントはちゃんと少しだけオトナになった。
お話は、人は自分のお城に閉じこもって生きてちゃいけないっていう、ありきたりなものなのだが(閉じこもるのはコドモ、人と繋がるのはオトナ)、丁寧にエピソードを重ねて語られるので、素直に楽しめる。まず導入がスマートである。ヒュー・グラントとバルカン星人の子供(彼が学校に馴染めないのは、エキセントリックな母親トニコレのせいではなくて、あの眉毛のせいに違いない!!)のモノローグを対比させて二人の状況をあっという間に説明してしまう。そして、その二人が出会うまでのお話の転がし方が上手で、しかもそこまでに使ったプロットもしっかり後でフォローしてある。とてもミニマルなクライマックスに至るまで、非常に感じが良い。まあ、ラップ少女とかちょっと虫が良すぎるエピソードもチラホラ見えるが、ご愛嬌だ
しかし、やっぱりこの映画を面白くしているのは、少年の視線である。あの少年の眉は、異星人の客観的な視線を表しているのであって、それがこの映画のユーモアに必要不可欠なものなのであーる!!と言い募りたくなる。だいたい、あんな「よい子」なんか実際には存在しないよ、きっと。ほーら、やっぱり彼はミスタースポックの係累に違いないんだ。そーに違いない。
御裁断は(最高☆5つ)
リターナー
いやー、お上手お上手。この監督の前作は「ジュブナイル」なわけで、今回もどこかでみたイメージの羅列です。マトリックス、インデペンデンス・デイ、ターミネーター、ETなどなど。ちょっとでも映画を観てきた人なら、すぐにどこからパクったか指摘できましょう。でも(前回も同じように思いましたが)、オリジナルのかけらも無くとも、模倣が上手であれば、よいのです。どうも、アジア以外のマーケットでも公開されるようで、順調ですな。あとは、ギーガー、シド・ミード、ウーピンのようなデザイナーを探しだしてこれさえすれば。。。そのときまで、どんどん模倣でしのいでいきましょう。
「ジュブナイル」と比べると、ずいぶん大きくなった鈴木杏ちゃんが、カイル・リースになって未来からやってきて、ネオの衣装着た金城武と、人類を救う為に金髪の岸谷五朗(怪演!)と戦うんだが、必殺の武器がサイボーグ009なのね。いやー、よくこの継ぎはぎを一つに収められるもんだ。ちゃんとタイムトラベル物のくすぐりも入ってるし。ところで、川合千春がセリフらしいセリフもなく突っ立ったままであっけなく退場しちゃうのは、贅沢だなあ。安いのか?
しかし、こう易々と模倣できるって事は、娯楽映画作るのって、実は簡単なのかもしれないなあ。。
御裁断は(最高☆5つ)
バイオハザード
これまであたしは何度となくテレビゲームの映画化作品に痛い目にあわされてきたものだ。で、今作は、その中でもかなり忌まわしい記憶に属する「モータル・コンバット」の監督が作った作品である。学習効果を備えた人間なら、普通、見に行こうとは思わないわなあ。
それなのに、わざわざ劇場に足を運んだのは、ひとえに予告編のミラ・ジョボビッチがミニスカートで蹴り入れるシーンがカッコよかったからなんだが、いやいや彼女はまさに野猿。アクションシーンが様になる事。それに、ずいぶんとサービスもいいし、眼福眼福。この人、作品選びのセンスがちょっと変わっているというか気取りがなくって、わたしのようなボンクラ映画ファンからにしたらありがたいんだが、当人の為を思えばもう少し選べばいいのにといいたくもなる。
お話は(って解説したくなるのは、私がゲームをやらないからで、多くの人にはお馴染みなのだろうが)、「ゾンビ」で「エイリアン2」である。それほど目新しいものでもない。ゲームの世界観なんて、そんなもんだなあ。なんでもいいんだが、ついさっきまで普通に暮らしてた人たちのはずなのに、どうして主人公たちを襲いに現れたときは、肉や骨が露になるほどズタボロになってるんだ?ゾンビ同士で食らいあうのか?
でもまあ、ゲームの映画化の中では面白かった部類だと思う。お話は一応一本筋が通っていたし、ダレるところもあまりなく、ジョボビッチちゃんは奮闘してるし。ゲーマーでなくてもついていける。
御裁断は(最高☆5つ)
オースティン・パワーズ ゴールドメンバー
今度は70年代である。ディスコである。54ならぬ69なのである(マイクマイヤーズも好きである)。ブラックエクスプロイテーションである。ローラースケートなのである。でも、なぜ、ドモアリガット?スティックスのあのアルバムは80年代じゃなかったっけ?
今回三作目で、「おバカやってる僕ってイケてるでしょ、イエーイ」っていうより、単なる本当のバカ映画になってきて、だいぶん見ていて心穏やかである。これなら、いかにお話が目茶苦茶でも、ギャグがくだらなくても、続編の事何も考えてない展開でも、あまり気にならない。もとから、そんなもんなんだから。それに、上映時間も短いし。本当は劇中劇の方が面白そうなんだが、まあ、それは言わぬが花。
それにしても、叶姉妹は慧眼である。自らの日本芸能界における位置づけと、かの役とを秤にかけて、きちりとオファーを断ったわけだ。ハリウッド映画に身も世もなく飛びつく事がなかったのは立派である。もし、受けていたら完全に日本での権威失墜であったろう。
御裁断は(最高☆5つ)
トータル・フィアーズ
これまで、ハリウッド娯楽作で原爆が爆発した事は何度かある。でも、それらは砂漠の地中だったり、海上だったりと、人命とは関係ないものだったが、それでも見ていて楽しくない気持ちになったものであった。それが、今度は何万人もの人が原爆で死ぬのである。こんなものを見せられては、ついつい「唯一の被爆国である日本で、こんな作品を夏休み第二段の期待の娯楽作として全国公開することには、断固抗議しなくっちゃ」という気持ちになる。私の住むここ長崎でもお盆中という事で結構大勢お客が入っていたけど、心穏やかでなかった人がたくさんいたに違いない。どうなのだ?アメリカ人は、この作品を911テロを連想することなく楽しく見ていられるのか?
映画の出来は、そこそこよい。というか、ジャックライアン物の中では一番良いと思われる。原作の複雑なストーリーをうまく刈り込みテンポよくまとめている。ベン・アフレックのジャック・ライアンは案の定ただのチンピラだったが、ジョン・クラーク、スピネーカー、ロシア大統領、モーガン・フリーマンなど印象的なキャラクターに事欠かない。
しかし、やはり今作での原爆の扱いは納得がいかない。このお話を展開させるのに、必ずしも爆発の必要はなかったではないか。ライアンの活躍ですんでのところで爆発が回避されたけれども、やっぱり米露が核戦争の寸前まで行く、というストーリーでもなんら不自然ではない。だいたい原作では件の原爆には欠陥があって、本来の爆発力を発揮できなかったという設定だったはず。なぜ、そこを省略する?ひょっとして、イラク戦に向けて原爆使用するための地慣らし、世論操作の為なのか?悲しい事だが、最近はそんな想像がしたくなる世情であることだ。
御裁断は(最高☆5つ)
ニューヨークの恋人
スター・ウォーズ エピソード2 クローンの攻撃
今回、ルーカスはエピソード1の轍を踏まなかった。過剰な説明を避け、見せ場を途切れなく繰り出し、ジャージャーの出番は減った。そして、エピソード4と6の焼き直しに過ぎなかったエピソード1とは違い、今作はこれまで見た事が無い世界でのジェダイの活躍を見せてくれた。スターウォーズとしては、完全に正しい映画だったのだ。でも、前回は全てジャージャーのせいにして目を背けることができた現実に、今度こそ直面しなくてはならなくなったのだ。もう、私の人生にスターウォーズは必要ではない。少し悲しかった。
エピソード2は見せ物映画として、まっとうに面白くできている。コルサントでの追跡シーンや、ジャンゴフェットとオビワンの戦いのシーンなどは、きっちりワクワクハラハラする。しかし、何度もオールナイトに通ってエピソード6のスピーダーシーンを見たり、エピソード1の公開を指折り数えて待ちわびて何人もの友人と連れ立って先行オールナイトに行ったようなことを、エピソード3ではやらないだろう、と思う。これは私が年を取ったからだけではないだろう。70年代にスターウォーズを特別なものにしていた突出した見せ物性は、今や特別なものではなくなってしまったからだ。これはスターウォーズが切り開いた、娯楽映画の流れの当然の帰結なのだろう。今や、スターウォーズを特別なものとして受け入れる事が出来るのは、限られた年齢の人たち、つまり思春期以前の子供だけなのではないだろうか。
良い映画は、必ずしも特別である必要はない。ただし、エピソード2を楽しむ為には、正義の側悪の側という色分けをして映画を観る意識を捨てたほうがいいかもしれない。そもそも主人公は悪の道に落ちる運命だし、歴史というのは往々にして複雑なものだ。そう、エピソード2は主人公たちの冒険話ではなく、銀河を揺るがした大事件の叙事詩になっているのである。
まったく話が変わるが、今回はすべてをデジタルで撮影したというのが売りである。しかし、結論を言えば、これは時期尚早であった。私のような素人が見ても、デジタル映像は大スクリーンで上映できるほどの画質をまだ備えていない。CGなどの特撮のシーンはまだいい。ダメなのは、実写のシーン、特に少し暗めのシーンである。画像は荒いし、オブジェクトの境界付近には色のにじみのようなものが見える時があるし、一度は髪の毛と背景の合成部分にブロックノイズのようなものまで見られた。このような画質が今後の映画のスタンダードになってしまったら、これほど困る事は無い。ああ、それでもエピソード3は、それでもやはりデジタルで撮影されてしまうのだろう。ちょっと暗い気持ちになる。
あー、なんか後ろ向きなことばかり書き連ねてきたが、☆は高いよ。だって、スターウォーズとしては良くできているんだもの。
御裁断は(最高☆5つ)
ハイ・クライムズ
ブレイド2
当代アクションスター西の横綱ウェズリースナイプス(東の横綱は当然リーリンチェイ)の当たり役、半人半吸血鬼のデイウォーカー、ブレイドの続編。前作で当然死んでしまっていたと思っていたウィスラーが復活して、あげく吸血鬼と同盟を結んでと、前作の設定はどこ吹く風。相変わらずの鈴木雅之ルックスで決めまくる。
世間的な評判は結構高く、ほとんど無視されていた前作よりもずっと注目度が高い。でも、残念ながらあっしには前作の方が面白かった。今回は設定を紹介する必要がないので、見せ場のつるべ打ちで進んでいく(「ガメラ」と「ガメラ2」のような関係だと思ってもらえればよろし)のだが、やや単調である。前作では、陽光の下のシーンが効果的に入っていたものだが、今回はほとんど薄暗い中での展開(それでもアクションの内容がちゃんとわかるのはさすがだが)で、敵側との押したり引いたりもなく、一方的な(こういってはなんだが)害虫駆除の趣である(もちろん犠牲は出るんだが。ドニーイェン、もったいない)。悪役側の煮え切らなさも手伝って、かーっという熱い盛り上がりに欠けるというか。
いや、まあウェズリーちゃんのほれぼれとするアクションを見れればそれで満足なんだよ、私は。実際、かなり満足した。ただブレイドのチャンバラシーンを一目でそれとわかるCGで置き換えたのだけは、いただけないけど
それにしても、チェコロケである。吸血鬼の本場はやっぱり東欧でしょうっていうよりも製作費節約の為ですかね?エンドタイトルでスタッフの名前にアクセント記号やらがいっぱい出てきたのは流石。
御裁断は(最高☆5つ)
愛しのローズマリー
人の価値は見かけではないのである。でも、でも、性格で人の価値を測るの?それって、性格にも優劣があるって事なの?
と、今作のような素朴な映画に対して、こんな疑問を抱いてしまうのはいけないことだとは思うのだけど、でもこれは、性格というあいまいではっきりとよくわからなくって解釈次第でどうとでもなるものを、客観的に判断できる(もちろん好みの部分もあるんだが)ルックスで示してしまうという今作の肝の部分に問題があるのだ、と私は断じたい。あの世にも恐ろしい悪鬼のような意地悪看護婦を見よ。あんな化け物に見合うほど悪らつな性格の人が存在するとファレリー兄弟は考えているのか?
こんなヒネクレタ解釈をしないとすれば、「人は見かけじゃないよ」っていうお話をこの作品は至極ストレートに描こうとしていると言える。しかしその反面で、「メリーに首ったけ」で見られたような、節操のないギャグがときどき顔を出してきて、それまでのストレートな部分とどうにも相性が悪くて、見てるほうとしても笑っていいのか悪いのか処置に困る。あんな終盤になって尻尾のネタを出してこなくても。。。ファレリー兄弟自身が過去のやり方に捕らわれているのかもしれないですな。
ジャックブラックは目にあまり変化がない。グィネスは、太ったメイクの方が実は愛嬌があったりするかも。ジョー・ヴィテレッリはマフィアの親分にしか見えないなあ。
しかしこの作品は結局、より良い評価基準を探しましょうって話なのだ。それなら、ハゲデブオヤジがかっこいい少林サッカーの方が、ずっと深みがあって良い話というものだ。
御裁断は(最高☆5つ)
少林サッカー
巷はすっかりワールドカップ一色だが、日本人の付和雷同的みんながサッカー見るからオフサイドもよくわからないけどおいらも見ちゃえ騒いじゃえブームに秘かに違和感を感じながらも、そんなことを口にしようものなら周りから悪し様に罵られるのを恐れてフラストレーションをためている向きにお勧め。馬鹿馬鹿しくて笑えるぞー
いや、そんなネガティブに構えなくても、この映画は良い映画。不遇な扱いを受けていた人たちの一念発起逆転劇。言ってみればロッキーみたいなもんだな。出てくる人出てくる人みんな情けない。ハゲ、デブ、八百長に絡んだ人、ブス、眼鏡、オヤジ。でもこの人たちが頑張るんだ。これまでに一度でも逆境を経験した事のあるオトナなら、このシチュエーションで燃え上がらない筈は無い。この映画を見てひいてしまう向きには「艱難辛苦汝を玉にす」を贈呈したい。ちなみに、あっしの一番のお気に入りは、少林の心をみなが取り戻すシーン。かっこいい。
この映画、マンガみたいだとよく言われているが、実はゴレンジャーなんじゃないの?だって、熱血アカレンジャー、カッコつけアオレンジャー、デブのキレンジャー、紅一点モモレンジャーまでいるんだよ。それにシュートする前に空中で一回転したり、シュートをくらったキーパーが吹っ飛んだり。
あと、香港映画にしてはとても丁寧な作りをしていることもポイント。バナナの皮ですっころぶ女性の話をちゃんと最後にフォローしているところなんか、見ててうれしくなるね。あと、太極拳団子娘の涙の話は泣ける。で、これが昔話風なのもよい。
あー、それにしても時代遅れになった技能を修めた色んな人たちに、幸あれと思うよ。
御裁断は(最高☆5つ)
パニック・ルーム
普通によくできたサスペンスドラマ。フォレスト・ウィテカーをはじめとする盗みに入った側とジョディフォスター親子側の思惑のすれ違いや、力関係の微妙な変化など、うまく描けていて退屈しない。別れた夫や警官に至るまで、劇中の役割に矛盾無い一貫した行動をとっていて、小気味よい。これまでのフィンチャーの才気煥発を期待する向きには不満もあろうが、これはこれでいいんじゃないの?
それにしても、ジョディフォスターは相変わらず強い。ジョディフォスターとフォレストウィテカーの対峙なら、一瞬でその結末が予想できてしまう。実際、覆面の男が指を潰されてパワーを失ってからはサスペンスが急激に低下してしまっている。ひょっとしたら、これは作り手の意図とは異なっているのかもしれない。でも、見ている側にしてみれば、ある程度の予定調和性があったほうが、落ち着いていられるからよいのだ。
別れた夫の行動やら、ラストショットやらを見ていると、この作品は基層に「善」が置かれているようである。そこのところがフィンチャーらしさとそぐわないような気もするが、でもフィンチャーは「ゲーム」を作った事もある人である。案外、そういう側面も持ち合わせているのかもしれない
しかし、どこにでも書かれている事だが、オープニングタイトルは素晴らしい。この映画を観るときには、上映時刻に遅れるべきではなかろう。
御裁断は(最高☆5つ)
スパイダーマン
まあ、私はこれまでもアンツやバグズライフを見に行っているわけで、ここのところクモの研究にいそしんでいる私としては、見に行かないわけに行かない(クモの研究であんなに立派な設備が出来たらいいだろうなあ。うらやましいよ)。というか、評判通りの良い映画なので、そういう背景が無くても見に行っていた事であろう。
アクションシーンの過剰な演出からくる高揚感は昔のサムライミが蘇ったもので、その上に、ここ数年のサムライミの習作シリーズによる人物描写が実を結んだ。痛快ヒーロー物であり、なおかつ主人公の成長物語でもある。
トビーマグワイア侮るべからずである。おおかたの不安を打ち消して大活躍。ウィレムデフォーもシャドウ・オブ・ヴァンパイアでも演じた二重性キャラをもっと展開していて、見ごたえアリ。キルスティン・ダンストはどうみても安キャバレーで身を持ち崩した年増にしか見えんのだが、6歳の頃に隣に越して来られたら、確かにクラッと来てしまわんでもないかもしれん。
昔から思っているのだが、クモという生き物は糸を使ってゆっくりと空を飛んでいるようなものなのである。この映画でもトビー君は雄叫びをあげながら糸を使って摩天楼を飛び回っていて(かなりスピード感があるのが本当のクモと違うところだが)、こりゃ確かにスパイダーマンだわい、である。ターザンだとも言えるが。しかし、こんな風に移動してるって事は、スパイダーマンは田舎じゃああんまり活躍できなさそうだ。
ところでエンドタイトルの音の使い方で、サムライミがテレビ世代の監督であり、本人もそのことに自覚的である事を確認した。このテレビ世代性はジョーダンテなどのようなものよりも、もう少し一般的なような気がする。ジョーダンテなどは、テレビで観たあの作品群オタクであるのに対して、サムライミの場合は、あらゆる事の理解にテレビの影響が見て取れる。
御裁断は(最高☆5つ)
キューティー・ブロンド
この作品、能天気で何も考えていないおちゃらけコメディを装いつつ、人生のちょっとした真実をいくつか切り出していて、私の好むところのハリウッド娯楽映画である。
しかしまあ、娯楽映画としてのし上げ方は、なんとも不細工。オープニングは、デートのお誘いの手紙が、学生寮の中を通って学生社交界の女王であるところの、イケイケ女子学生に届けられるまでを軽快な主題歌に載せて描き、主人公がどんな世界に住んでいるかをたっぷりと紹介する。その間、主人公はもったいぶってなかなか紹介されないわけだ。お客さん、いや増す期待。これだけ焦らされるんだから、どんなゴージャスなブロンド美女が出てくるのかー!って、ところに出てくるのが長さ10cm(ウソ)にも及ぼうかというハリウッド1のアゴを持つリースウィザースプーンなんだから、お客さんズッコケ。つかみは完全に破綻している。
で、いろいろあって、カリフォルニアから東海岸にやって来て、よりにもよってハーバードの法学部に入って、周囲にバカにされながら、なんだかわからないけど殺人事件を解決して成功してしまうのだが、明確な敵役がいないから主人公の成功にはあまりカタルシスは無いし、殺人事件の解決部分もご都合主義を隠しもしないしで、なんだかなー。
とはいえ、これは良い映画なのである。明確な敵役がいないという事は悪人が全く出てこないという事で、そのせいで構成はヌルヌルになるんだけど、同時に明るい幸福感も味合わせてくれるわけだ。これまでと違う文化に馴染めない時でも、自分のスタイルを保って希望を持って明るく生きていきなさい、って気恥ずかしくなるほど前向きなメッセージなんだが、世の中には前向きなメッセージを必要としている人もいるからねえ。
ところで、リースウィザースプーンには、日本未公開の「ハイスクール白書 優等生ギャルに気をつけろ」という大傑作コメディがあるんだが、もともとはシリアスな役からキャリアをはじめた人。それがコメディ映画で実績を上げてスターになるっていうと、なんとなくケビンクラインを思わせる。ってことは、そのうちライアンフィリップも感化されて、ジーンズの上からパンティつけようとして七転八倒するようになったりする日が来たりしたらいったいどうしよう。
御裁断は(最高☆5つ)
クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦
去年に引き続いて、まったく、よい仕事をしている。武士の鑑のような侍、凛としたお姫さま、小さいながらも誇り高い国とそれを狙う冷酷な大国、で、あとは主人公の侍が身分の違う姫さまを想いながら、自分の国の為に不利な戦局に悲壮に立ち向かう、って、たったこれだけの話。今の日本に最も必要なものは力強い物語なのだ、ということをまたもや証明した映画であろう。
実際、「オトナ帝国」と比べても筋立てはよりシンプルになっている。本当にお国の危機を縦糸に、横糸に身分違いの恋を配しただけで、それを、いくつかの小さなエピソードを重ねて丁寧に描いているだけなのだ。そうだ、今の日本にもう一つ必要なのは、地道で丁寧な仕事だってことだ。
あんまりシンプルで、野原家の面々さえわき役になってしまっている。クレヨンしんちゃんのまっとうなファンなら、食い足りないのではないかと心配されるくらいである(あっしは、前作を見て、くおーってテレビも見てみたが、つまんなくてやめてしまったくらい本編には興味の無い人なので平気なのだが)。前作ではいくつか見られたお約束も今回ずいぶん減ってる印象だし、現在の野原家の生活の描写もなく、タイムスリップに接した野原家の驚きもほとんど描写されず当然のように事態は受け入れられる。ここまでやったら、もうクレヨンしんちゃんじゃなくっても、全然構わない。誰か豪毅な日本映画会の重鎮さんは原恵一に非しんちゃん映画を作らせるべきだ。こんなに全身で「普通の映画をつくりたーい」って主張してるんだから、聞いてやればいいのに(でも、そうしたら誰もお客が入らないだろう事が、日本の貧困であるなあ。かくいうわしだって、その映画を観に行こうと思うかどうか怪しいもんだし)。
それにしても、どこの映画評でも触れられているが、今作の戦国合戦の描写のリアルさはすごいの一言。あっしも、一応男の子なので子供の頃は戦国時代物は大好きだったし、つい最近まで「歴史群像」という戦史雑誌を購読しては読みふけっていたものだが、そのような雑誌で読んだようことが(アニメとは言え)眼前で展開されると結構感動する。昔の戦争って、陣が崩れ始めたら、それで終わりなんだよねえ。だから、突進する自動車一台あれば、本当に戦争に勝てるんだよねえ。
それにしても、この作品にもっとも感じる時代劇臭さとは、「青空侍」という言葉そのもののように想う。本当の戦国の時代には、「青空」という概念は果たしてあったのだろうか?そうではなく、この言葉から伝わるのは、昭和30年代くらいの空気。その頃は、そう時代劇全盛の時代。「青空」と「侍」の語感の、よく考えれば不思議な取り合わせと、一方でその気色よさが、よき時代劇のムードを醸しだす力の一つになっているのだろう。
御裁断は(最高☆5つ)
アザーズ
第2次大戦後のイギリスの古いお館。ニコールキッドマンと光アレルギーの二人の子供は、いつもカーテンを下げた部屋の中で暮らしている。その暗闇の中には、何かが?!
とまあ、いかにもお化けが出ますよ出ますよーって売っているが、あまり怖くはないので、この手の映画が苦手な向きも安心して良かろう。この怖くなさって言うのは、決して演出が下手だったり脚本がタコだったりするわけではなく、テーマがテーマだけに意図したものなのだと推察される。
ヒッチコックやキューブリックに影響を受けているとのことだが、私が見るにこの映画は、それらの監督の作品とは全く違う。ヒッチコックは、もっと登場人物にコミットして作品を作り、観客と主人公を同化させた上でサスペンスを作る監督だし、キューブリックの主人公は通常完全に狂っていて不安や恐怖を感じたりしない。観客は、そのような感情移入を完全に拒絶する主人公を目の当たりにする事で不安な気持ちに陥るのである。確かに、アメナーバルは上手で、この作品もお話としては破綻無いし演出もちゃんとコントロールされたものなのだが、キャラクター作りが中途半端なのだ。ニコールキッドマン演じる主人公は、感情移入は出来ないのだが、一方で不安に陥ってキーキー喚き続ける(20ニコールくらい)。私のような観客はおいてけぼりを食うのである。最近の非ハリウッド系の監督と言う意味で考えてもシャマランには一段及ばないように思える。
まあ、しかし、この評価は「パール・ハーバー」がもてはやされる昨今の状況を考えると厳しすぎるだろう。今後ももっと精進して、もう少し感情を揺り動かすことのできる映画を作ってくれたまえ。
それから、この作品は音響のよい劇場で観る事をお勧めする。天井を走る向こうの世界の者共を体験するには、必須である。
御裁断は(最高☆5つ)
ビューティフル・マインド
この作品を見たのは4/1。ブラックホーク・ダウンと続けて見たのだが、エイプリルフールに実話映画を二本も観なくても、と思わんでもない。
アカデミー賞は心の病を扱う作品に弱いということを再び証明したこの映画。見てて退屈はしないのだが、指輪より優れているかというと、それほどでもない。あー、アカデミー賞をさらわれて残念だ。ラッセルクロウとジェニファーコネリーが意外に芸達者で、こちらは主演男優賞と女優賞をもらってもよかったのに、今度は黒人二人にさらわれた。アカデミー賞はなかなかこっちの思い通りにはならない。
天才とキチガイは紙一重とよく言うが、もし天才が本当にこの作品のようならば、あっしは天才じゃなくって全然構わないや(というのは酸っぱいブドウ。あっしも学問の世界の端っこにしがみついて生きているけど、天才とはほど遠い存在だよなあ。とほほ)。
御裁断は(最高☆5つ)
ブラックホーク・ダウン
常々思っているのだが、地域紛争への最も有効な対処法とは、国境を外から封鎖して全ての武器や経済援助の流入を止める事なのではないだろうか?もちろん外から武器が入ってこなくても、殺し合いは続けられるが、その効率はかなり低下する事が期待される。それから、立場が違っていても協力しなければ共倒れになってしまう状況を作ってやれば、内戦などしてられなくなるわけで、そのためには経済援助で中途半端な豊かさを作り出すのは逆効果だろう。それに、この映画でも触れられていたように、経済援助が一部のものを富ますだけの結果に終わるのは、よくあることだ。
一方で武器を売り、また一方でその武器に倒れる兵士がいる。なんて無駄なことだろう。このような不条理に対して「仲間の為に戦うんだ」って考える兵士という人たちが付け込まれて立場になってしまうのは必然である。確かに、この言説は事実なのだろう。そしてリドリースコットはリアリズムの監督だから、事実さえ描けていればいいと思っているのかもしれない。しかしそれは同時にリドリースコットの限界を示しているように思える。
そして、この作品はプライベートライアン以後の戦争映画の極北だろう。二時間半の上映時間のほとんどが切れ目無く続く戦闘シーンで、登場人物の空間的な位置関係や、そもそも画面に映っているのが誰かさえ判別できない事が多いにも関わらず、上映時間の長さを全く感じなかったことには驚いた。
ところで、最後にも触れられたが、19人の米兵の死亡に対してソマリア人は1000人以上が死傷したという。こうして逆の立場から眺めて見ると、この事件は単なる大量虐殺なのだと言える。アメリカ軍が巻き込まれた悲惨な市街戦というのは、あまりに一方的な見方なのだろう。
御裁断は(最高☆5つ)
エネミー・ライン
ボスニアで墜落した偵察機の乗員は無事に敵陣を突破できるか?ってのが興味の中心になる映画なんだが、主人公が鼻持ちならない(実際鼻が曲がっているんだが)アメリカン野郎で、感情移入し難い事はなはだしい。大体において、軍隊で上官に対してあんなに反抗的だなんて、リアルさを欠く。
あげく演出がダメダメである。どこかで見たようなスタイリッシュな映像のパクりが、ドラマと何の関連も無く繰り出されてくる。どうしてそこを手持ちカメラのドキュメンタリータッチで演出しなきゃならないんだよ!!って、何度スクリーンに向かって突っ込んだ事か。他にもMTV風の短いカット連発とか(ちゃんと音楽はロックだったりする)、ある動作を一部だけ早回しする手法だとか、とにかく最近の目新しい手法をとりあえず使ってみました、、って素人監督じゃないんだからなあ。
主人公が逃げ回る中で、アメリカ万歳な連中に出会って助けてもらうのだが、そのへんの展開も鼻白む。本気でアメリカが愛されてると思ってるんだから、困ったものだよ。ジーンハックマンもバット★21で助けてもらったときとは大違いで精彩がないし。
しかし、この映画で何が驚いたかって、登場人物のその後を最後にテロップで紹介した事。この映画はフィクションですぜ。どこのどいつが、作り手が適当にでっちあげた後日譚で感動したりするものかね。バカじゃないのか?
御裁断は(最高☆5つ)
モンスターズ・インク
2、3歳の子供を映画で使うのは、いかにも難しそうである。赤ん坊と違ってそれなりの人格ができつつあるので、劇中で全く何も動きを見せないというわけにはいかないし、かといって現実にいるこれくらいの年ごろの子供が演技をしてくれるかというと、そうではない。下手したら、動物よりも扱いが難しいんじゃないか?
というわけで、この映画を観て最初に思った感想は、「そういやあ、このくらいの年ごろの子供がリアルに描かれているのって初めて見た」ってのです。CGなら扱いが楽だわなあ。この、一時も止っていなくって、突然泣きだしたかと思うと唐突に笑いだす、しゃべれないくせにこっちの言うことは結構わかっている生き物が非常によく描けている。子供ができたら、DVDを買ってみせるべし、とうっかり思ってしまう。
ピクサーの映画はドリームワークスと比べてストーリーの質が格段に高く(ドリームワークスのお話は変なひねりがあって、見ててすっきりしない。ディズニーを意識しすぎではないのか?)、語り口についても一回りも二回りもできがよいのだが(さすがスティーブジョブズの会社、ということにしておく)、今作はそんなピクサーの映画の中でも群を抜いて出来がいい。モンスターの世界がどのように運営されているかを描く手際のよさなど、もう感動的である。オチも適当にひねってあるし。もちろんディズニーだから単純な悪役が出てきて勧善懲悪のハッピーエンドになるのだが、アニメなんだからそれでいい。もっと複雑な事象を描きたければ他の手法があるわな。
それから、CG技術も何気なく向上している。キャラクターの感情表現はほぼ完ぺき。見ている途中から、モンスターが主人公である事を忘れてしまう。ラストのショットをあのように控えめに処理した事も好感が持てる。
ところで、例によってラストクレジットに平行してNG集があるのだが、それが流れているうちから帰りだす客がいたことに大変に驚く。目の前で重要な事が行われているじゃないか。エンドタイトルが出たら劇場を出るという行動パターンが染みついていて変えられないのだろうか?映画を観る行為さえルーチン化しているということか?一体何を考えているのだろう?
御裁断は(最高☆5つ)
アメリ
映画ファンというものは、世界に対して傍観者的に接するものである。もちょっと意地の悪い言い方をすれば、映画を観ることは基本的に覗き見で、覗きというのは自分を安全な場所において行う行為であるから、積極的に物事に取り組むという姿勢とは折り合いの悪いものである。そんなわけで、他人に対して自分の姿を隠して策略ばかり繰り返す夢見がちなアメリは私たちの写し絵といえる。
であるが、アメリの行う策略は、決して見ていて気持ちの良いものではない。たかが映画に真面目な突っ込みを入れて恐縮だが、彼女は自己満足の為に他人を利用しているに過ぎない。なので、結果として幸せな気持ちになる人がいる一方で、ひどい目に会わされる人もいるのだ。決して褒められた性格ではないぞ。アメリブームに乗っかっている女性陣に、そのへん注意を促しておく(偉そうだな>わし)。
しかし、と、ここでもう一回論旨をひっくり返すが、にもかかわらずこの映画はとても素晴らしいのだ。太陽の光の下のジャンピエールジュネがこんなに美しい映画を作るとは想像だにしなかった。主人公が主人公だけに、いろんな場所からものを見るのだが、そのショットは上下と遠近に空間を使ったものになる。こうして空間的に緻密に構成されたショットの数々を見ていると、単純に映画的喜びを得られるというわけだ。そのうち主人公の不快さも気にならなくなるから恐ろしい。あげく、ラストはアメリが自分のダメなところを少しだけ克服する形になっており、ちょっと感動させられたりする。惜しむらくは、お話と表現方法が一本調子に過ぎて、途中でだれてしまう事だ。いくつかエピソードを削って20分ほど時間を短くすれば良かろう(やっぱり今日は偉そうだな>わし)。あと、もう少し悪趣味な表現を抑えてくれていれば完ぺきだったのだが。
それにしても、ドミニク・ピノンって個性的だ。
御裁断は(最高☆5つ)
ロード・オブ・ザ・リング
うおー、手に汗握った。弓がひゅんひゅん飛び交う戦いはいいねえ。放物線は美しいよ。あっしは、職人的に戦うクールな弓撃ちが一番のお気に入りだ。
確かに、これも原作の物語をなぞることに制約を受けている側面はある。原作を知らないものには、このプロットがなぜ必要なんだ?と思うことはあるし、唐突に音楽が大きくなると感じるときががあるのも否定できない。ガンダルフがあんまり活躍しないのも気になるし、あげく、ホビットの脳天気のせいで危機に陥るかのような描写はどうかと思う。しかし、ピータージャクソンとクリスコロンバスには大きな違いがある。それは、圧倒的な絵づくりである。変な言い方かもしれんが、その絵にはイマジネーションに(あとニュージーランドの素晴らしい風景に)基づく深みが与えられている。この絵を見せられて、燃えることができない人は、一生映画館に来なくてよろしい。
しかし、この映画は怖い。年端も行かぬ子供に見せるのはためらわれるほどだ。特にイアンホルムとケイトブランシェットが指輪の力のために一瞬邪悪な顔を見せるときなんて、悪夢に出てくること間違いなし。オークやトロールたちも禍々しさいっぱいである。さすがはピータージャクソン。ダークサイドを描かせたら抜群。思えば、この監督はずっと寒々とした映画を描いてきたことだ。
しかし、三部作だということははじめから重々承知だが、それにしてもこのラストは見るものに欲求不満をかき立てる。早く次を見せろ!一年も待ってられるか!!三カ月毎に公開しろ!!!いや、別劇場で良いから三本同時に公開してくれ頼むから。原作を読むという誘惑に後二年間耐えられるだろうか。ホビットに課せられたものに勝るとも劣らぬ試練だ。
それにしても、あのアマちゃん子供だましファンタジー映画は、ロード・オブ・ザ・リングの前に公開しておいて良かったねえ。後からだと、到底鑑賞に耐えなかったよ(いや、前に見てても耐えられなかったんだった)
御裁断は(最高☆5つ)
ジーパーズ・クリーパーズ
コッポラpresentsって言われて観に行くお客の層と、この映画を喜ぶ層ってのはだいぶん違うと思うんだけどなあ。これを嬉しがるのって、ファンタスティック映画のディープなマニアくらいじゃないの?それとも、師匠ロジャーコーマンになりたいのか?>コッポラ
人気の無い西部(だよな?)のハイウェイを飛ばすオンボロ車に乗った姉弟が怪しいシーンを目撃して、やじ馬的にその現場に忍び混んだらさあ大変。とんでもないものを観てしまいました。というのが前半。で、そのとんでもないことをしでかした犯人、というか何者かに追いかけられて逃げ惑うのが後半。前半は、人のいない田舎の怖ろしい雰囲気いっぱいで(「Uターン」か「ブレーキ・ダウン」かって感じもあり)観ててもう大変だった(いや、良い意味で)のだけど、後半はなんだそりゃあ?!の吃驚展開をするトンデモ映画。いきなり霊能者出てくるし。
前半の印象があるもので、ジェイソンやフレディのちょっと高尚なものだと思えたりもするるんだが、それにしても最後の落ちは何なんだ?実はただのおふざけ映画なのか?よーわからん。しかし、ジェイソンはシリーズを通じてゆっくり変質していったものだが、それを一本の映画で行ったら、やっぱりトンデモだろう。惨劇映画といえば映画についていろいろ蘊蓄たれるやつが出てくるものだ、とうっかり思っちゃっている(この映画にも少し影響があるが)かもしれない最近の人には新鮮なのだろうか?
それにしても、せっかくの前半なんだから、そのままシリアルキラー路線で行ったほうが良かったんじゃないの?っていうか、前半前半って他に書くことないのか?>わし(だって、無いもの)。
御裁断は(最高☆5つ)
オーシャンズ11
結論を先に書くという習慣は良いもので、映画評の読者にしてみれば、つまらない映画のことをグダグダ読まされなくても良くなる。まことに素晴らしい習慣だ。
というわけで、つまらないのだ。役者は豪華でお話も小難しいところが一つもない。娯楽映画の王道のような映画なのだが、ただ一点欠けているものがある。それはエモーション。娯楽映画なんだから、登場人物の感情が最高潮に達するところは、照明きっちりしてその表情を細大漏らさず捉え、観客にもその表情に集中してもらう為にフィックスのアップショットにしなきゃいけない。そうしてこそ、エモーションがお客に伝わって、お客のココロも動こうというものである。ところが、ソダーバーグ先生相変わらず手持ちカメラにご執心で、クライマックスでも粒子は粗いし手ぶれだし。なーんで、ジョージクルーニーとブラットピットが、難攻不落のカジノから現金盗む話をリアリズムで描こうとするかなあ。トラフィックやエリン・ブロコビッチみたいに社会派の色のある作品ならともかく。
しかしジョージクルーニーも何考えてんだか。全編にやにや薄ら笑いを浮かべていたが、どういうキャラクターを作っているつもりなんだろう。さっぱりわからん。そういえば、あっしはこの人が主演の映画で「これは!」というのに当たったことが無いなあ。
御裁断は(最高☆5つ)
ヴィドック
今のご時世、人目を引きつける映像作りなんて簡単で、ちょちょちょっとデジタルで画面の遠近感をゆがめてみたり、背景の配色をいじってみたりで「なんか妙」感を作り出せばいいのです。しかし、この方法は短時間しか効果が続かず、単なる目くらましにしかなりません。
ヴィドックねえ。妙ちきりんな構図や、粒子を荒くした超クローズアップはあまり楽しくないなあ。それに、建物の屋根と空の境界部分に走査線のようなものが見えてたシーンもあったぞ。全般に画面は見づらい。で、そんなにまでして得られた効果が効くのもせいぜい数十分なんだから、その労力を別のところにかけてくれればいいのにと思ったり思わなかったり。
ジェラール・ドパルデューが巨体をふるわせて熱演。おどろおどろしいパリの造形は魅力的なんだが。。。
御裁断は(最高☆5つ)
ラットレース
いやしかし、全くノーマークで何も前知識無しで見に行ったら、まさかジェリー・ザッカー久しぶりのコメディだったとは。ちょっと嬉しかった。
お話としては「キャノンボール」に「大逆転」のテイストを少しふりかけたような感じ(喩え方が20年ほど時代遅れだな>わし)。キャストは豪華で、いろいろ出てくるんだけど、ウーピー・ゴールドバーグはじめ期待通りというか型通りで、みなさん適当に流して演じてたに違いない。それにキャラクターがイマイチ立っていないので(特にセスグリーンは何か勘違いしている)、最初は「なんかもっさりした展開だなあ。ジェリーザッカーも感動系ばっか撮ってて焼きが回ったのかなあ」と思ってたわけだ。そんな中を救ったのがヘリコプターの姉ちゃん。彼女が突然キレ始めてからは、見ているこっちも振り切れて、良い意味であほらしいギャグを(決しておバカ系の「しょうもないことやってる俺っておしゃれ?」っていうんじゃないのが好感度大)素直に笑えるようになって。そうしたら後はギャグのつるべ打ちに見えるから不思議なもんだ。決してできが良い映画だとは思わないが、「フライングハイ」とか思い出して涙ぐむような人にお勧め。オープニングタイトルもちょっとかわいい
いや、それにしても驚いたのは、エンドタイトルが終わったら「インターネットラットレース」という画面が出てきて、クイズが出やがるの。なんでもインターネットでいくつかのサイトをクイズに答えて周り、最後に映画を見て出てくるクイズに答えたら抽選で賞金が当たるとか。「映画に対する愛のかけらも無い宣伝だなあ、どこよ配給会社」って思ってたらパチンコのアルゼが配給に協力していた。道理で。
御裁断は(最高☆5つ)
スパイキッズ
「実は、僕は選ばれた魔法使いの子供で」っていうのと、「実は家のパパとママはすご腕のスパイで」ってのは、メンタリティーとして全く一緒であることよ。ただ、願望の対象が自分じゃないだけ好感が持てると言えようか。
パパとママにバンちゃんことアントニオ・バンデラスと「スネーク・アイズ」に引き続きカツラ取っ払うカーラ・グジーノ。バンちゃん相変わらずファンキーで、グジーノさんも素敵ざーんすが、出番や見せ場はあまりない。変わりにタイトルどうりにキッズが大騒動を繰り広げる。開巻30分ほどはとってもテンポよく進むが、バックパックで空を飛ぶところが終わると、だんだん刺激にも慣れて退屈してくる。で、当初悪役だと思っていたアラン・カミングが悪役の座を降りるにいたって、お話は破綻して何が何やらわからなくなる(とはいえ、アラン・カミングの役柄は魅力的に仕上がっているが)。あげく最後のピンチを乗り切る方法をセリフで説明されるだけにとどめられるのは、大きな問題であることよ。やっぱ、ここは目で見える展開がないとねえ。
あと、最後に画面に向かってひとくさり家族の団結=最大の冒険、とぶつのなら、前半でもうちょっと普通の家族生活の難しさをビジュアルで見せておいてくれなきゃだめだよなあ。いじめられてる、とか、学校を無断で休んでいる、とかセリフで説明するだけじゃだめでしょうさ。赤ん坊の扱いにアタフタするバンちゃんとかのシーンは必須でしょ。
まあ、でも、全般感じが良かったから、いいんだけど。それにしてもロバート・ロドリゲスはロバート・パトリックが大好きだねえ。
御裁断は(最高☆5つ)
シュレック
「人は見かけではない」とよく言う。でも、このことをギリギリ考え詰めていくと、難しいことがいろいろあることに気がつく。例えば、内面が全く同じ人間が二人いたとして、一人がペネロペ・クルス、もう一人がソーラ・バーチだとしたら、どうするの?上の倫理に照らして、どうなの?もう一人が山田花子ならどうなの?
とか、「ベスト・フレンズ・ウェディング」のキャメロン・ディアスと「ベリー・バッド・ウェディング」のキャメロン・ディアスを比べたら、どちらが美しく見えるの?それは上の倫理とどう整合性を取るの?「バニラ・スカイ」のキャメロン・ディアスならどうなの?
この映画は、そのような問題についての一つの非常に美しい回答なのである。というか、「これしか答えはないだろう、なぜこれまではそうではなかったのだ?」という話なのだ。で、それだけ。
なぜ、おとぎ話のキャラクターは迫害されているのかがわからないとか、ファークワード卿がそんな悪らつな人間に見えないとか、盲のネズミの意味がわからないとか、そもそも平穏な生活が欲しいからと言って命の危険を冒すシュレックの気持ちが理解できないとか、色々色々突っ込み足りないとか描き足りないところのある食い足りない映画のように思える。なんで、こんなのが大ヒットするんだ?
テーマパークに対する何とは無しに感じる座りの悪さをこんなふうに明快に描いてもらえると我が意を得たりと言う感じなのだが、これももっともっと辛辣に描けたはず。向こうのエンターテイメント業界でディズニーに逆らうのは、そんなに怖いことなのかなあ?
御裁断は(最高☆5つ)
スパイ・ゲーム
絶対、ロバート・レッドフォードは入れ歯をどこかに落としてきたに違いない。
我々小市民が、日々の生活でスパイに会うことはきっとないだろうと思われる。いや、会ってもそれとわかる可能性は皆無だろうて。そのようなスパイが、もし本当にいたら(いや、どこかにはいるのだろうが)、きっとこんな感じのやつであろうという説得力のある映画だった。年老いたレッドフォードといえども。
実際のところ、これはレッドフォードの映画であって、ブラピ目当てで劇場に足を運んだ向きにはご愁傷さま。そういう意味でこの映画は、如何にレッドフォードが組織をかいくぐって己のこだわりを通すかというところがポイントであって、そこに至るまでの過去のエピソード関連のサスペンスは本質ではないはずである。しかし、そこは娯楽映画職人のトニー・スコットなのでついつい過剰に演出してしまう。「クリムゾン・タイド」でも男のロマンを描こうとして、イマイチ成功しなかった彼の限界が再び現れた映画であったといえよう。しかしよく考えれば、今のハリウッドにそういうところを描ける監督はあんまりいないな。フランケンハイマーはくどくなり過ぎるし。
冷静に考えれば、解決されないままのプロットがいっぱいある粗い話なんだが、最後の最後、ブラピとレッドフォードのオーバーラップはうまかった。終わりよければすべてよし。
御裁断は(最高☆5つ)
バニラ・スカイ
例によって、あまりストーリーを語ることはできないのだけれど。
この映画は決してトム・クルーズ、ペネロペ・クルス、キャメロン・ディアスの三角関係を描いたラブストーリーではない。これは、最後まで本当にはそうと知ることのできない現実を、にもかかわらず選び取るお話である。また、これは人と同じ地平で苦しむ神が、それでも人を選び取る話でもある。人生は何と困難で、価値あるものだろうことか。
通常、私はこの手の引っかけ宣伝には批判的である。作品の本質を隠ぺいすることは観客を愚ろうすることだと思っている。しかし、今回に関してはそれもいいかもしれないと思う。世間に一片の疑いも持たずに生きてきた人たちが、トム・クルーズを接点にして世界と常識の無根拠性に触れて慄然し、それでも明日を過ごすためには何が必要かについてほんの少しでも考えてくれるようになれば、世界はもう少し過ごしやすいものになるだろう。多分、この映画を正面切って宣伝しても、本当に必要な人には届かない様な気がする。
ペネロペ・クルスは素晴らしい。キャメロン・ディアスは本当に怖くなってきた。カート・ラッセルがこんな役をやっているのを見るのは、ファン冥利に尽きる。トム・クルーズのナル指向は今回は問わない。
星4.5をつけるが、私はオリジナルの「オープン・ユア・アイズ」を未見なので、この評価が、ただオリジナルを間接的に評価しているだけなのか、それともトム・クルーズとキャメロン・クロウがオリジナルの価値をより高める作業を行ったためなのかはわからない(なので、今は早急にオリジナルを見たいという気持ちに駆られている)。とはいえ、トム・クルーズは少なくともこの作品を自分たちの手で作りたいと望んだのだ。それは、彼が映画というものに真摯に取り組んでいる証に思える。私は「タップス」以来、ずっとトム・クルーズを見てきたが、はじめて彼の真面目さを理解することができ、好感を持つことができた。これは大きな収穫だ。
御裁断は(最高☆5つ)
ハリー・ポッターと賢者の石
これ、面白いの?
いや、そりゃ原作を読んでいる人は面白いかも知れんさ。しかし、あたしゃ、この映画を見て原作を読もうという気にはならないなあ。もうオープニングからして覚め覚め。魔法の映画なんだから、ファンタジーなんだから、最初に行うべきことは観客に嘘を信じてもいいやという気持ちにすること。その手順としては、現実世界なんてなかったことにするか、もしくは100パーセント現実の側に立ってリアルな演出を行うことで魔法世界に驚く劇中人物に感情移入させることが王道。この作品みたいに、現実世界を描くときに全然現実味のない描き方をされては、信じるものも信じられん。おじさん夫婦の描き方なんてただの悪ふざけやんかよ(ホーム・アローンと同じノリでへどが出るわい)。え?お前みたいに原作も読んでこないやつは最初っからお客として想定してない?
じゃあ、百歩譲ろうよ。魔法の裏町に入ったシーンとか、魔法学校の大講堂みたいなところにはじめて入ったシーンとかで「どうです?」とばかりに鳴り響く大仰な音楽は何よ。あれって、「ほーら、見たこともない世界でしょ。感心しなさいねー」って言ってるわけ?だったら、そのシーンの前に少しくらい前振りしてよ。それが、いかに素晴らしいかについてお客が理解しているからこそ、いざそのシーンが眼前に繰り広げられたときに「おおっ」て思うんじゃないですか。いきなりポンと目の前に出されて、それで音楽ばっかり鳴り響かれてもなあ。何?だから、お前みたいに原作も読んでこないやつは。。。?
いや、わかったよ。おいらが悪かったよ。もうちょっと世の流れについていっておくべきだったよ。これで五百歩譲ったよ。でもなんなのよ、あのラストシーンは。あからさまにヒイキやんかよ。いや、人間だからヒイキもしよう。魔法使いみたいな傲岸な人種はなおさらだ、それは仕方がない。でも、わざわざ他の寮の生徒たちを優勝だと思わせておいて、あとからさじ加減一つでひっくり返すなんて、そりゃあないよ。あんなことされたら善良なおいらだって世をすねて悪の魔法使いになろうって思うさね(あれ?続編はそういう話なのか?)いや、だから、お前みたいに原作も読んでこないやつが悪いって?そんなことないさ。いくら原作が面白いからって言って、こんなダメな映画まで誉めそやすようになっちゃあ、おしまいですぜ。っていうか、そんないい加減な商売しやがるな、日本映画じゃないんだから。書いてて段々腹立たしくなってきた。
箒を使った球技のシーンなんか面白いんだけどね。それにしても、特撮がいい加減だったりして興ざめ。公開日が決まってたから突貫で作ったためにあの手抜き具合なんだろうと推察される。ベストセラー原作でヒット間違いなしだから手も抜けたんだろ。お客もなめられたもんだよね。で、そんな映画の癖に大ヒット(あっしなんか通常客なんかほとんどいない日が変わってからのレイトショーが満員で入れなかったんですぜ。映画の日で初日だったとは言え)してるから必要以上に口汚くなってみました。
御裁断は(最高☆5つ)
オー・ブラザー!
オデッセイアの映画化だそうだ。ジョージクルーニーが愛する妻子に会うために長く(といっても何日かだが)苦しい旅をする話。コーエン兄弟はいつものようにトボけたエピソード満載のお話を進めていく。コーエン兄弟物の中ではよく出来ているほうだと思うが、それにしてもどうしてこの人たちの映画は心を揺り動かさないのだろうか。大脳皮質の表面1ミリくらいしか使わずに映画を見ているような気持ちになる。いや、面白いんだよ。でも、これって、いいのかね?
しかし、ホリーハンターである。なんか最近出てくる映画出てくる映画怖い役柄ばっかりである。今作なんて、ずぶ濡れボーイズの歌を聴いた途端手のひらを返したようにこれだ。あげく、どうでもいいことで「怒るわよ」ときたもんだ。あー、女ってどうしてどいつもこいつも。ジョージクルーニーいわく「女にとって真実かどうかは重要でないのだ」。これこそ知恵の言葉なり。しかし、ホリーハンター。昔はきれいな人だなあと思っていたのになあ。
前世紀はじめの南部が舞台なんだが、風景がきれいで、まだ人間の力が及んでいないところがたくさんあった時代の話である。であるからこそセイレーンやヒキガエルの話が展開できるのだ。物語の出でし来る場所について考えざるを得なかった。しかるに今は物語の成立しにくい時代であることよのうとため息も出てきたのだった。
御裁断は(最高☆5つ)
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