過去の「最近見た映画」
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御裁断は(最高☆5つ)
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御裁断は(最高☆5つ)
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シャマランの作品に関して言うと、「サイン」と「ヴィレッジ」の間に重要な転換点があるように感じる。それは、「サイン」までの三作が、主役一人に焦点を絞った極めて「小さな」世界を描いていたのに対し、「ヴィレッジ」と今作で描かれる対象が人間の集団、もっと言うと社会の挙動であるという違いである(アパートの住人の人種構成や、それぞれが役割を見いだす中で全体としての目的が達せられていくところなどに、シャマランの「社会のあり方」観が現れているのじゃなかろうか)。それと平行する形で、「失われた人への落とし前」という「サイン」までの三作の背骨になるテーマは、以降の二作では(まだ形を残してはいるものの)次第に背景に退きつつある。今作では、その現れ方は申し訳程度であり、むしろ全体の話の流れからは浮き上がっていて、その必要性はほとんど無くなってしまっているくらいだ。
つまり、「ヴィレッジ」以降、シャマランはより「大きな」テーマを扱い始めていると言う事である。しかしながら、残念な事にシャマランはこの新しい、彼にとっての「語るべき事」を持て余しているように感じる。特に、彼の作品を特徴づける独特の語り口が、「語るべき事」とミスマッチなのだ。その意味で、今作は失敗作だと言って構わないのだと思う。ただ、だからといって今作には意味がないと断じてはならない。シャマランが、彼の語り口のエッセンスを損なわない形で、「語るべき事」に合わせてそれを修正する事ができれば。。。今作はそんないつか来るかもしれない傑作のための一ステップである、と位置づけたい。いや、実際のところ、これだけはっきりとした「語るべき事」を持ち、他の人ではできないやり方で映画を作る作家は今のハリウッドにはシャマラン以外にはいないのだ。「シックス・センスと違うんやかー」という気短なブーイングで葬り去るにはあまりに惜しいではないか。
それに、良く見て欲しい。今作は、地上に落ちてきた他所の世界の人を、アパートの住人がよってたかって元の世界に帰してやるという筋のドタバタコメディだ。ポール・ジアマッティの演技を見よ、最初に役割を見いだしていく時のでたらめさとそれが原因の騒動を見よ、映画評論家の最後の間抜けさ度合を見よ。いつもの語り口に惑わされてはいけない。これはシャマラン初のコメディなのだ(そういう意味で意欲作でもある)。驚愕のどんでん返しなど、ハナから起りえない。期待するのはお門違いである。
というわけで、暖く見守ろうじゃないか。確かに失敗作ではあるけれども、手を抜いた結果としての失敗ではないし、そもそも決して見てられないほどの駄作なのではないのだから。
御裁断は(最高☆5つ)
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で、今作はそんな私にとっての理想の一本である。ソウルの中心を流れる漢江に現われた怪物を扱うパニック映画でありながら、その中には、あっちにぶつかりこっちにぶつかり不器用に進んで行くしかない人生や、一つの事象に複数の意味が同時に存在する物事のあり方や、現在の韓国社会の様々な問題点や、そして親から子へと受け継がれるもの、といった数多くのリアリティが奇跡のバランスを保って共存している。このような作品であるから、決して一筋縄な展開を見せる事はない。怪物にさらわれた娘を救出しようと立ち上がるソン・ガンホとその家族だが、主人公のソン・ガンホは四六時中居眠りしている木偶の坊だし、弟のパク・ヘイルは学生運動に関わっていたせいで職につけず酒に溺れているし、妹のぺ・ドゥナはアーチェリーの選手として重要な戦力になるかと思えば、実はどんくさいキャラでしかもアーチェリーは武器にはあまりならないという。だから、彼らの救出作戦は重要なところでことごとく失敗していく。でも、多分それこそがリアリティだ。現実には普通の庶民は怪物と対峙したりはしないが、もしそんな事態になったとして、スムーズに相手を倒せるはずが無いではないか。
だいたいに於て、娘捜索の初動が、広大な下水道をしらみつぶしに探すと言う、到底頭が良いとはいえない物である。それでも普通の映画なら、こんな無謀な初動だったとしても、何らかの形で手がかりに繋がっていくという展開を見せるところだが、この映画は違う。無謀な行動は取り返しのつかない失敗を導き、話の繋がりはいったん断ち切られ、そしてその後初めて見込みのある行動が行われるのである。普通の映画になら、「最初っからそれをやらんかい!」と言うツッコミを入れるところだけれども、この映画ではそんな遠回りをわざとやっている。つまり、これもリアリティを作り出すためだといえる。
この作品の上手なところは、そんな普通の人のリアリティを踏み台にしながら、最後には怪物を倒すという娯楽性にもリアリティを与えていることだ。その仕掛けとして機能するのが怪物の大きさである。今作の怪物はゴジラのような、軍隊がよってたかっても敵わないような巨大なものではなく、現実に存在する大型の獣程度の大きさだ。だからスムーズではないにしても、懲りずに挑戦していればそのうち倒せそうなリアリティがあるのである。このことは、話を進める上でのもう一つの重要な支点を提供する。この大きさだから怪物は特に街を壊して回るわけではない。せいぜい人を何人か食べてしまうだけで、であれば、軍隊や警察が(アメリカからの圧力があると言う設定の元では)触らぬ神に祟りなしとばかりに、怪物対峙に真面目に取り組まないと言う設定(バーベキューのシーンなど、直接怪物と退治せず緊張感もない組織の末端部なら、いかにも行われそうだと大笑いさせられた)、ひいては普通の家族が自分たちだけで戦わなければならないと言う設定に説得力が出てくる。
この大きさが怪物の最初の大暴れシーンの絵面をとてもユニークなものにしている。向こうの橋脚に小さくぶら下がっていた怪物が水に落ち、なんだかわからずふざけて餌を投げ込んでいる人々の方に黒い影が近づいてきたかと思うと、今度は横方向(画面的には奥)からガッツガッツとこちらに走ってくる怪物。逃げ惑い転ぶ人々。怪物も転ぶ。このあたりをバスの中からのショットも交えて俯瞰気味に撮る。こんな風に撮られた怪獣映画がこれまであったろうか。もうこのシーンは美しいとさえ言える。美しいと言えば、娘が腰の辺りを尻尾に巻かれ、右少し上方向にビューンって引っ張っていかれるときの、体の折れ曲がり具合、手足はまだその場に残っているのに、腰の部分だけ力づくで持っていかれる絵の美しいこと。他にも、河原を右から左に走るぺ・ドゥナとか、クライマックスで右手をぐるぐる回しながら左から右上に移動し火炎瓶を放るパク・ヘイルをスローでとらえたショットとか、絵の美しさだけで涙が出てくるところがふんだんにある。こういう作品を見ると、当たり前だけれども、映画は「絵」が本質なんだと、動きもその中に含んだ「絵」が丁寧に作られていることが良い映画の必須の条件なんだということに改めて気がつかされる。
そしてラスト。このような結末にすることは、ハリウッド映画ではおそらくほとんど許されないであろう。このオチに「救われない」とか「必要がない」という感想を持つ人も多いようだが、このオチは本作のもう一つの要素であるアメリカや韓国政府に対する批判性を考えれば理解できる。つまり、結果的に貧しい少年を助けるために大きな犠牲を払ったのは政府でも米軍でもなく、普通の家族だったという事、そして事件の顛末を糊塗するテレビのニュースをおいしそうなご飯を食べながら足を使って消してしまうラストで、このテーマが貫徹すると言える。どうでもいいがアメリカへの批判と言えば、この話の発端であるところの漢江へのホルマリンの投棄だが、私は映画を見ていたときは「ずさんな設定だなあ。19世紀じゃあるまいし、今時そんなこと誰もしないでしょう」って思っていた。しかし、後から知ったことだが、どうやらこの部分は実話らしい。しかも事件が起こったのは2000年と映画の設定そのまま。びっくりした。
そんなわけで、この映画のユニークさは他に類を見ない。年に一・二本しか映画を見ない人には、このユニークさはひょっとしたら、単なるわかりにくさに映るかもしれない。でも、映画ファンを自認する人ならば、この作品を見ることは、きっと何年かに一度しか訪れない至福の映画体験になることだろうと思う。
御裁断は(最高☆5つ)
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まあでも、サスペンス映画としてはそこそこまとまっていて、ヴァージニア・マドセンも頑張っていたので、割と面白く見れたんだけどね。
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