シャマランの作品に関して言うと、「サイン」と「ヴィレッジ」の間に重要な転換点があるように感じる。それは、「サイン」までの三作が、主役一人に焦点を絞った極めて「小さな」世界を描いていたのに対し、「ヴィレッジ」と今作で描かれる対象が人間の集団、もっと言うと社会の挙動であるという違いである(アパートの住人の人種構成や、それぞれが役割を見いだす中で全体としての目的が達せられていくところなどに、シャマランの「社会のあり方」観が現れているのじゃなかろうか)。それと平行する形で、「失われた人への落とし前」という「サイン」までの三作の背骨になるテーマは、以降の二作では(まだ形を残してはいるものの)次第に背景に退きつつある。今作では、その現れ方は申し訳程度であり、むしろ全体の話の流れからは浮き上がっていて、その必要性はほとんど無くなってしまっているくらいだ。
つまり、「ヴィレッジ」以降、シャマランはより「大きな」テーマを扱い始めていると言う事である。しかしながら、残念な事にシャマランはこの新しい、彼にとっての「語るべき事」を持て余しているように感じる。特に、彼の作品を特徴づける独特の語り口が、「語るべき事」とミスマッチなのだ。その意味で、今作は失敗作だと言って構わないのだと思う。ただ、だからといって今作には意味がないと断じてはならない。シャマランが、彼の語り口のエッセンスを損なわない形で、「語るべき事」に合わせてそれを修正する事ができれば。。。今作はそんないつか来るかもしれない傑作のための一ステップである、と位置づけたい。いや、実際のところ、これだけはっきりとした「語るべき事」を持ち、他の人ではできないやり方で映画を作る作家は今のハリウッドにはシャマラン以外にはいないのだ。「シックス・センスと違うんやかー」という気短なブーイングで葬り去るにはあまりに惜しいではないか。
それに、良く見て欲しい。今作は、地上に落ちてきた他所の世界の人を、アパートの住人がよってたかって元の世界に帰してやるという筋のドタバタコメディだ。ポール・ジアマッティの演技を見よ、最初に役割を見いだしていく時のでたらめさとそれが原因の騒動を見よ、映画評論家の最後の間抜けさ度合を見よ。いつもの語り口に惑わされてはいけない。これはシャマラン初のコメディなのだ(そういう意味で意欲作でもある)。驚愕のどんでん返しなど、ハナから起りえない。期待するのはお門違いである。
というわけで、暖く見守ろうじゃないか。確かに失敗作ではあるけれども、手を抜いた結果としての失敗ではないし、そもそも決して見てられないほどの駄作なのではないのだから。
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