で、今作はそんな私にとっての理想の一本である。ソウルの中心を流れる漢江に現われた怪物を扱うパニック映画でありながら、その中には、あっちにぶつかりこっちにぶつかり不器用に進んで行くしかない人生や、一つの事象に複数の意味が同時に存在する物事のあり方や、現在の韓国社会の様々な問題点や、そして親から子へと受け継がれるもの、といった数多くのリアリティが奇跡のバランスを保って共存している。このような作品であるから、決して一筋縄な展開を見せる事はない。怪物にさらわれた娘を救出しようと立ち上がるソン・ガンホとその家族だが、主人公のソン・ガンホは四六時中居眠りしている木偶の坊だし、弟のパク・ヘイルは学生運動に関わっていたせいで職につけず酒に溺れているし、妹のぺ・ドゥナはアーチェリーの選手として重要な戦力になるかと思えば、実はどんくさいキャラでしかもアーチェリーは武器にはあまりならないという。だから、彼らの救出作戦は重要なところでことごとく失敗していく。でも、多分それこそがリアリティだ。現実には普通の庶民は怪物と対峙したりはしないが、もしそんな事態になったとして、スムーズに相手を倒せるはずが無いではないか。
だいたいに於て、娘捜索の初動が、広大な下水道をしらみつぶしに探すと言う、到底頭が良いとはいえない物である。それでも普通の映画なら、こんな無謀な初動だったとしても、何らかの形で手がかりに繋がっていくという展開を見せるところだが、この映画は違う。無謀な行動は取り返しのつかない失敗を導き、話の繋がりはいったん断ち切られ、そしてその後初めて見込みのある行動が行われるのである。普通の映画になら、「最初っからそれをやらんかい!」と言うツッコミを入れるところだけれども、この映画ではそんな遠回りをわざとやっている。つまり、これもリアリティを作り出すためだといえる。
この作品の上手なところは、そんな普通の人のリアリティを踏み台にしながら、最後には怪物を倒すという娯楽性にもリアリティを与えていることだ。その仕掛けとして機能するのが怪物の大きさである。今作の怪物はゴジラのような、軍隊がよってたかっても敵わないような巨大なものではなく、現実に存在する大型の獣程度の大きさだ。だからスムーズではないにしても、懲りずに挑戦していればそのうち倒せそうなリアリティがあるのである。このことは、話を進める上でのもう一つの重要な支点を提供する。この大きさだから怪物は特に街を壊して回るわけではない。せいぜい人を何人か食べてしまうだけで、であれば、軍隊や警察が(アメリカからの圧力があると言う設定の元では)触らぬ神に祟りなしとばかりに、怪物対峙に真面目に取り組まないと言う設定(バーベキューのシーンなど、直接怪物と退治せず緊張感もない組織の末端部なら、いかにも行われそうだと大笑いさせられた)、ひいては普通の家族が自分たちだけで戦わなければならないと言う設定に説得力が出てくる。
この大きさが怪物の最初の大暴れシーンの絵面をとてもユニークなものにしている。向こうの橋脚に小さくぶら下がっていた怪物が水に落ち、なんだかわからずふざけて餌を投げ込んでいる人々の方に黒い影が近づいてきたかと思うと、今度は横方向(画面的には奥)からガッツガッツとこちらに走ってくる怪物。逃げ惑い転ぶ人々。怪物も転ぶ。このあたりをバスの中からのショットも交えて俯瞰気味に撮る。こんな風に撮られた怪獣映画がこれまであったろうか。もうこのシーンは美しいとさえ言える。美しいと言えば、娘が腰の辺りを尻尾に巻かれ、右少し上方向にビューンって引っ張っていかれるときの、体の折れ曲がり具合、手足はまだその場に残っているのに、腰の部分だけ力づくで持っていかれる絵の美しいこと。他にも、河原を右から左に走るぺ・ドゥナとか、クライマックスで右手をぐるぐる回しながら左から右上に移動し火炎瓶を放るパク・ヘイルをスローでとらえたショットとか、絵の美しさだけで涙が出てくるところがふんだんにある。こういう作品を見ると、当たり前だけれども、映画は「絵」が本質なんだと、動きもその中に含んだ「絵」が丁寧に作られていることが良い映画の必須の条件なんだということに改めて気がつかされる。
そしてラスト。このような結末にすることは、ハリウッド映画ではおそらくほとんど許されないであろう。このオチに「救われない」とか「必要がない」という感想を持つ人も多いようだが、このオチは本作のもう一つの要素であるアメリカや韓国政府に対する批判性を考えれば理解できる。つまり、結果的に貧しい少年を助けるために大きな犠牲を払ったのは政府でも米軍でもなく、普通の家族だったという事、そして事件の顛末を糊塗するテレビのニュースをおいしそうなご飯を食べながら足を使って消してしまうラストで、このテーマが貫徹すると言える。どうでもいいがアメリカへの批判と言えば、この話の発端であるところの漢江へのホルマリンの投棄だが、私は映画を見ていたときは「ずさんな設定だなあ。19世紀じゃあるまいし、今時そんなこと誰もしないでしょう」って思っていた。しかし、後から知ったことだが、どうやらこの部分は実話らしい。しかも事件が起こったのは2000年と映画の設定そのまま。びっくりした。
そんなわけで、この映画のユニークさは他に類を見ない。年に一・二本しか映画を見ない人には、このユニークさはひょっとしたら、単なるわかりにくさに映るかもしれない。でも、映画ファンを自認する人ならば、この作品を見ることは、きっと何年かに一度しか訪れない至福の映画体験になることだろうと思う。
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