ダイ・ハード4.0
私にとってダイ・ハードの一作目はこれまで見た全ての映画のベスト3に入る作品であって、もういったい何十回見たかしれない。で、今回4.0(なんというくだらない邦題!)を見て、一作目と続編達の間の重要な違いに思いが至った。それは、1にだけ見られる祝祭性である。
もちろんこのシリーズはテロリストとジョン・マクレーンの死闘を描き続けているわけで、敵は皆、血も涙も無い連中ばかり。だけれども、続編群の敵はどこか陰湿なところがあるのに対し、ハンス・グルーバーだけは一人、その行いを楽しんでいる節がある。いや、というか、滑稽味があるのだな。多分、一作目を傑作にしているのは、その要素に帰するところ大なのであって、つまりアラン・リックマンこそが肝であったのかもしれない。で、その滑稽味があるから、何の落ち度もないタカギさんが殺されても、お客はそれほどイヤな思いをしなくても済むと言う。二作目で飛行機が落とされて何の罪も無い乗客が多数死んだ時の、気持ちの悪さと比較してみよ。で、敵が明るいから、それを倒すことがお祭りになるのだな。ある意味で、ハンス・グルーバーは倒されたいキャラなのですよ。だから、倒してやってみんなハッピーという。続編群にはそれは無いわね。続編群の敵はみんな眉間にしわを寄せていて、それを倒すのって、ひたすら暗い方向に落ちていくだけだわね。
もう一つ祝祭性を感じさせたのが第九。歓喜の歌を聴いて、これを祝祭と思わない人がいるだろうか。あと、クライマックスに向かって収束していく伏線の数々もお祭り的な盛り上がりを感じさせるのだ。続編群はイベントをこなしていくだけの話なので、クライマックスでも伏線によって高みに押し上げられる快感を得られないのであるな
それはともかく、本作の事も書こう。本作のテーマは「英雄である事」といえて、それは「やりたくない事でもやらなきゃならない事をするのが英雄」という事らしい。で、それはジョン・マクレーンそのものであって、つまり本作は自己言及の作品だと言える。で、自己言及と言うと私がよく思い浮かべるのは、ブログ。ブログは最初のうちは時分の書きたい事だけ書くから、それなりに面白いのだけど、そのうち新しく書くべき事が枯渇して、すると決まって「ブログを書く事はどういうことか?」という自己言及に陥る事が多いらしい。つまり、何が言いたいかというと、今作はこのシリーズで新しい事がもう生まれえない事を示唆しているのかもしれない、と言う事だ。であるならば、燦然と輝く一作目の価値を落とさぬよう、もう凡作の続編は作らなくて良いんじゃないかと思いたくなるのだ(でも、実際に続編が作られたら、私は行くぞ。だって、これまでのベスト3になるような作品には、ご恩返しをしなくちゃならないからね)
どうでもいいが、私がHPに映画の感想を書きはじめた、一番最初の作品はダイ・ハード3だったりする。
御裁断は(最高☆5つ)
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