ダイアリー・オブ・ザ・デッド
カメラを持つ事には功罪両面あって、持つからこそ見えてくるものというものがあるのが功。なんとなれば、見ると言う事は極めて主観的な行為であって、普通は意識しないその行為をカメラのフレームが浮き彫りにしてくれるから。一方、この映画で描いているのはその罪の方。フレームが浮き上がらせる主観性に対する意識が、撮影者をして自分はメタな立場に立っていると錯覚させ、それが傲慢というか特権意識に繋がっていくという経路。
今や、カメラは至るところにあって、ネットの普及が言葉の力に対する無自覚と繋がって起こしている問題と同じような事を将来引き起こす可能性が出てきている。というか、もう既に生じ始めている。前作「ランド・オブ・ザ・デッド」でアメリカの傲慢を描いたロメロ御大が今回目をつけたのはそういうことなのではないかと思う。
必要なのは、映像に対するリテラシーで、これを身に付けるには自分で撮ってみるしかないのだから、この懸念と言うのは単なる時代の過渡期の問題なのかもしれない。その過渡期を越えて、物事を良い方向にもっていくために今作のような考察が為される事が大事なのだろう。
御裁断は(最高☆5つ)
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