20世紀ノスタルジア
わたくし、通常はこういう単館上映系の映画は極力避けるようにして生きているのですが、今回どうしてこの作品を見たかと言いますと、、、ウォッホン。実はわたくし最近
広末命!
でありまして、マックの壁紙に100種類もの広末画像を張り付けて30分に一度交換しては悦に入っていると言う状態なのです。ああ、いうてもうた。恥ずかしい。
で、広末は2人の高校生の主人公のうちの一人です。もう一人は男の子(名前はもうどうでもよろしい)なんですが、この映画は男の子側のテーマと女の子の側のテーマと2つのテーマがあって、これをうまくまとめれば一本で2度美味しい映画になっていたはずなのですが。。。。
男の子側のテーマというのは、思春期の自己嫌悪をいかにして乗り越え自分のことを認めるようになれるかというものです。年ごろの男の子というものは(女の子もそうかも知れないが)破壊衝動の塊です。その衝動が何処に向かうかは本人のエネルギーの量と環境によって決まると思うのですが、エネルギーがとても大きかったり、最近のように自己の外の世界の多くがすでに破壊されていたりすると、両者のバランスが崩れ、破壊衝動を適切に向かわせられなくなります。そういうとき、往々にして起こるのが自己破壊です。自分の中にある物をうまく外に向けられず、自らを蝕んでしまい、苦しい。思春期の少年にとって女の子はこういう自己破壊に救いの手を差し伸べてくれるものです。女の子と接しているうちに破壊衝動が根拠のないものだと気づくのか、それとも自分で破壊した部分を女の子に修理してもらっているうちにはしかのように破壊衝動が消えていくのか、いずれにせよ、そうして男の子はなんとか折り合いを付けていくものです。僕にもそういわれると覚えがあります。
さて、女の子側のテーマはずばり恋愛です。自分のもとから去っていった少年に苦しみ、彼の心を理解し、少年をとりもどすお話しです。
おそらく、この2つのテーマは最初は等価なものだったのではないでしょうか。しかし、実際につくってみると、おお、どうしたことか、あまりの広末のずぬけた魅力のせい(これは決して贔屓目だけではないと思っているのですが、いかなもんでしょう)と、男の子役の俳優(再び、名前はどうでもよろしい)のあまりの軽さ、うそっぽさのためにバランスが非常に悪くなってしまっています。ここまで来ると、みていた僕には男の子側の論理がうるさくって邪魔なものでしょうがありませんでした(
広末命!
のせいだけじゃないと思うんだけどなあ。僕が男の子のせいってのはあるかも。男の子が自分のことを嫌いだからってウジウジ言ってる話をええおっさんが見てもあかんのかもね。それに、あの男の顔には魅力がまったくない。厚ぼったい瞼とひねまがった唇。それが、あの宇宙人うんぬんのせりふと相まって、うーむ、軽薄だ)。このアンバランスはひょっとしたら作ってる側にも予想外だったのかもしれませんけど。
それにしても、全編ビデオによるセルフ映像のオンパレードでした。自分を映すことは自分のことを知りたいと思ってのことでしょう。自分を知りたいというのは、人間として当然のことですが、それにしても自分のことにしか興味がないのではないかと思われるほどのセルフ映像というのは、見ている側にしてみれば面白くも何ともない。広末でなかったら到底間がもたないぞ。こういうのがいい映像だと思うのはマスターベーション的な弱さだと思います。さて、自分というのが、本当に自分の肉体だけを意味しているのは若い時期だけです。本当の自分とは自分の外にも広がっているはずなのです。ずーっとビデオカメラで自分と相手を撮影し続けた少年と少女は最後の再会以降はカメラを持ちません(正確には親が取り上げる)。こうして、彼らは若さから卒業していったのでした。この締めくくりはなかなかよかったと思います。
とっころで、15、6歳の女の子はほんとうにすっごく顔が変わるんですね。確か何年かにわたっての撮影らしいんですが、それにしても別人のような顔をしているところがあってカットで繋がれるとびっくりでした。でも、むっちゃ、かわいかったよーん。
御裁断は(最高☆5つ)
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