ゲーム
フィンチャーのクリスマスキャロルです。
現実とゲームとの境界が無くなっていく恐怖!戦慄!というわけなのですが、いまどき何を言っているのでしょうか。そんなもん、ディックの小説をたんと読んでから出直してきなさいっ。トータルリコールもあるしさ。
映画とはある意味で現実の仮想体験です。映画を楽しむためには、いかにしてゲームを現実と混同するかという面がすでにしてあるわけです。その
映画
の中で「現実とゲームの違いがわからないから怖いだろう?」って言われてもねえ。そんなのを怖がる人はそもそも映画見ないと思うんだけどなあ。こういう構造だと、どんなに主人公が危機的状況に追い込まれても、見ているほうは「どうせ、ゲームなんでしょ」って思っちゃいますよね。
作品の中に埋め込まれているテーマについて考える方がまだしも建設的でしょう。なぜ、マイケルダグラスはメキシコまでいって埋められなければならなかったのか?ショーンペンの出現がなぜマイケルの最後の行動を引き起こしたのか?そして、ゲームの最後にマイケルは誰を殺したのか?結局のところ、やはり何かを殺さなければ大人は成立しないのでしょうか?大人になることを拒否したものは何かを殺すことを拒否しているのでしょうか?CRSは現代が失った通過儀礼を執り行ってくれる営利企業だということでしょうか?
御裁断は(最高☆5つ)
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