ホーホケキョとなりの山田くん
残念ながら、僕はこの映画に対してあきらめの心境で対することはできません。
もちろん、ジブリの人たちの主張は全くごもっともで、僕自身も常日ごろから口にしていることです。しかし、その主張をこのような形でパッケージして提出するところに、ジブリの人たちの精神の後退性があらわれているようで、僕には嫌悪感しか残りません。この作品のテーマは、それだけで存立させてしまうのはあまりにも危険です。なぜなら、それは限りない甘え、弱さにつながるからです。僕なら、この映画を全部で30分の長さに抑えて、病院のシーンなどは全てカットして、そうして「もののけ姫」と同時上映にします。そうして、やっとこのテーマは生きてくるのです。
ジブリという精神性は、問題と対峙しなくてはならないときに、必ずファンタジーの世界に逃げ込もうとします。結局、忌むべき70年代から一歩も進歩していないのです。この映画では、「正義の味方」のシークエンスでその特徴がよく出ていました。途中、暴走族のシーンをあれだけリアルに、しかも山田くんたちまで、リアルな姿として描くということまでしていながら、ついにお婆さんと族が対決するとき、絵柄がこれまでのマンガに戻ってしまいます。そこでの問題の解決のやり方は夢物語といってもよいほどです。夢物語そのものが悪いのではありません。最初にリアルな絵柄のシーンを挿入し、シリアスさを表現したのだから、逃げてはいけないと思うのです。そこで本作のようなやり方が出てくると、最初のシリアスさは欺瞞かと思います。
結局、山田くんは自分の力で問題を解決することはできませんでした。そして、彼は公園のブランコに座って月光仮面の妄想を見ます。僕は、このシーンであやうく席を立ちそうになりました。2段目のファンタジーへの逃げ込みを行い、しかもそのファンタジーで描かれるのは借り物のイメージ、しかもノスタルジーを引き起こすだろうという計算の元に借りてこられたイメージです。ここがジブリの人たちの後退性の白眉のシーンだったように僕には思います。非常に悪意を込めて言うならば、彼らはシリアスになりたがっているだけで、決して本心からシリアスなのではないのでしょう(これこそが忌むべき70年代ではないか)。もし、本当に何かの問題をシリアスに考えているならば、もう少し現代性というか同時代性が現れてくるものなのだと思います。
この映画の形式上のクライマックスは、誰かの結婚式で山田くんが行うスピーチです。そこには、テーマがあけすけに語られています。わかりますか?映画がその作品の中で登場人物にテーマを語らせるとき、その映画は自分自身のメディア特性を否定していることになるのです。これは映画では絶対にやってはいけないことのはずです。僕は、ここでも後退性を感じました。
この映画、最初の15分ほどの花札を利用したオープニングとミヤコ蝶々(!)のスピーチをバックにした、これぞ動く絵!のシークエンス、それから異様な臨場感の音響効果、見事な音楽といったように、百戦錬磨の映画ファンをうならせる要素がたくさんつまっています。でも、年に数本しか映画を見ない普通のお客様は絶対に見てはいけません。入場料に見合うだけのものを手に入れることはできないでしょう。
御裁断は(最高☆5つ)