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マトリックス レボリューションズ
どこでこの作品(と前作)が失敗したのかを考えてみようと思う。まず第一に思い浮かぶのはスミスを復活させた事である。このことにより、一作目にあった機械と人間との対立軸がぼやけてしまった。二作目・三作目の究極の敵はスミスだったわけだが、そのスミスが敵である理由が、単に邪悪だからというのでは深みも何もあったもんじゃない。「人間性の回復」という普遍的なテーマを持った一作目の続編がウィルス駆除話になっちゃあしおしおだ。どうでもいいが、二作目三作目のテーマは「選択を自分で引き受けること」なんだと思う。しかしね、それはオタクにとっては重要な事かもしれんが、普通の社会生活を送っている大人には当たり前なんだぞ。
二つ目は、いらぬ能書きだろうか。前作であんなにもったいぶっていたメロビンジアンやパーセフォニーは今回申し訳程度の出演。何だったんだあの空虚なセリフの数々は。そして、そのようなセリフがアクションやドラマと絡んでこないのが致命的。一作目にちりばめた思わせぶりなセリフの数々がウケたのが災いしたようだ。風呂敷を拡げたまま、たたみきれなかったといったところか。それから「愛」とかグダグダ言うのって、一作目から後退しているじゃないか。
三番目はアニマトリックスのあざとい商売の尻拭い。私はある程度、話に聞いているからよいようなものの、ネオファンの少年の件なんて知らない人には全く不要だ。あざといといえば音楽もあざとくって聞いてられない。
四番目、これは作り手のせいではないのだが、オラクル役のグロリア・フォスターが三作目を撮る前に亡くなったのは痛かった。オラクルの重要性は三作目で一番高まるのだが、そこを代役にしなくてはならなかったのはつらい。残念ながらあの存在感は失われた。
そしてザイオン。数多く出てくる新キャラがことごとく印象が薄い。それから攻防戦の凡百のドンパチシーン。そのうえ電磁気爆弾でセンティネルを倒せるのなら最初っからやっておけばいいのだ。あれが使えないから困っていたのじゃないのか?そのあたりの練り込みが決定的に不足しているように感じる。
まだある。これはハッピーエンドじゃない。電池になっている人間のことは放置したままなのか?これがあの気高く人間性の回復を謳った作品の続編と言えるのか?
最後に、これは今作だけの問題なのだが、これは「マトリックス」だぞ。マトリックス世界があまり出てこないんじゃあ、何をやっているんだかわからない。だからといって、今作唯一のマトリックスのシーンである(ラスト、スミスと闘うところは現実離れしていてマトリックスの中と言わなくったってかまわない)ディスコでのアクションシーンを肯定するわけではない。これは一作目の繰り返しに過ぎないわけで、アリバイ的につけられたシーンのように見える。
とどのつまり続編は作られるべきではなかったと思う。ヒット作の続編は数あれど、マトリックスほど作られるべきではなかった続編もないんじゃなかろうか。期待の分だけ失望も大きい。
御裁断は(最高☆5つ)
アイデンティティー
大雨で孤立したモーテルに偶然集まった11人の男女が一人一人消えていく。そして10から一つずつ数が減っていくルームキーが一人消える度に見つかる。どうして、そしてなんのために
その謎は中盤にはある程度予想がつくようになる。この映画のすごいところは、そのタイミングを見計らったかのように、その予想に解答を与え、その解答に基づいた新しい世界の中で全く異なるサスペンスを作るのである。このような物語を人が発想しうるということを知るためだけでも、この映画は観る価値があると思う。ジェームズ・マンゴールドの映画に外れ無し。
ジョン・キューザックはなんだかとてもかっこよく、レイ・リオッタは結局いつものレイ・リオッタだった。あと細かい事を言い始めるとネタバレになってしまうので、今回はこのへんで。
御裁断は(最高☆5つ)
ロボコン
キル・ビル
あなたの知らない謎の世界、日本。そこは寿司屋のオヤジが千葉チャンで、コギャルがナンパサラリーマンを刺し、飛行機のシートに刀置きがある世界。血塗られた花嫁が日本語で啖呵を切り、テーマ曲は怨み節。そしてジャンボ機は広告が輝くビルの谷間を飛ぶのである。おお、私たち日本人は大笑いできるが、世界の人々は信じちゃうのか?
正直言ってですね、タラチャンにはこれ以上お金をあげない方がいいと思う。今回はギッリギリのところでバランスをとっているように思われるが、もうこれは破綻寸前。いや、もちろんタラは破綻承知でやってるんだろうけど、その承知は容易に誤解されてしまうと言う点で破綻なのである。
ルーシー・リューがなあ。もう少し日本語がうまければ。っていうか、あれなら日本人に演じさせればよいのに。もしくは吹き替えるか。しかし、予告編で見どころのかなりの部分をやっていたことがわかって少ししょんぼり。音楽の使い方は相変わらずのセンスで、私はエルドライバーが病院に現われるところの口笛が好きだな。あとジュリー・ドレフュスが腕切られてのたうち回るところはとってもドキドキした。なんかそそられません?
どうでもいいんだけど、vol2は来年の春。例によって時間軸をバラバラにしているわけで、今作のシーンのディテールを来年まで覚えていなければ、話が一つにまとまるカタルシスを味わえないんじゃないかとちょっと不安。
御裁断は(最高☆5つ)
インファナル・アフェア
潜入捜査官物はよくあるのだが、今作のポイントは警察がマフィアに捜査官を送り込んだだけでなく、マフィアの側も警察にスパイ警官を送り込んでいること。で、この二人が互いの存在を知らぬまま、ボスの逮捕を巡ってせめぎ合う前半のサスペンスシーンは素晴らしいの一言である。登場人物の知らない事を観客は知っていて、どうなることかといやます緊張である。
それに比べると、後半は少しテンポが悪いのが悔やまれる。どう考えても後半の二つのクライマックスは連続させるべきである。ケリー・チャンのシーンは要らない。要らないのについついこのシーンを入れてしまって感動を誘おうと言う過剰なサービスが香港映画的だと言えばそうなのだが。
まあ、しかしそんなことは些細な問題で、あなたが男なら義のために身を挺す主人公達に熱くなる事請け合いである。アンソニー・ウォンが最高。彼こそがこの映画の肝と言えよう。こういうのは女性には理解できないのじゃないかと思わんわけでもないのだが、私は女性じゃないので本当のところはよくわからん。
あと、スパイ警官は5-6人いたんじゃないかと思うのだが、そのへんがほったらかされているのは香港映画流のルーズさなのか、はたまた三部作になると言うこのシリーズの続編で描かれるのか。
御裁断は(最高☆5つ)
28日後...
ダニー・ボイルのゾンビ映画というふれこみ。映像のエッジの効き方や音楽の使い方はダニー・ボイルっぽい。一方、ゾンビ映画なのかというとそうではない。ゾンビ映画には常に「押し潰される」恐怖があるのに対して、この作品にあるのは「孤独」の恐怖。ゾンビ映画では定番の、人がゾンビの群に飲み込まれて手だけが突き出されたまま食われてしまう、と言うシーンが本作にはない。ゾンビの恐怖は外側にあるのに対して、この作品の恐怖は内側にあるとも言える。この味わいは、ゾンビ映画とは似て非なるものだ。
主人公達はゾンビの海の中活路を開くわけではない。代わりに誰もいないイギリスを旅し、少しの放蕩と美しい郊外でピクニックを味わう。そして行き着いた先で彼らが対決するのはゾンビではなく、人。「ザ・ビーチ」の変奏曲のようだ。あと、本編が終わった後にもう一つのエンディングが流されるのだが、ゾンビ映画としてはこちらの方がより正統的だろう(最後に主人公がガバッと来れば言うこと無し)。
登場人物達の行動(例えばトンネルに入っていくところ)が奇妙に思えるのは、この作品をゾンビ映画だと思うからであって、これは孤独を叫ぶ青年の話であるのだから、にぎわいを求めていろいろな振る舞いをするのも理解できるとこじつけることもできよう。
御裁断は(最高☆5つ)
ローマの休日
まだ13歳のときにテレビで見て以来だから二十何年かぶりに見るわけだ。子供の時に見て感動した映画を大人になって見返すのはいつも不安なものである。昔の感動を今得られなかったらどうしよう、と。それは決して自分が感受性を失った事を恐れるからではない。そうではなく、子供の頃の感動が、普遍性を持たない何か一時の気の迷いのようなものである事が白日の下になるかもしれないことを恐れているのだ。
しかし、幸いな事にほとんどの場合その不安は杞憂に終わる。今回も然り。やはり名作は名作。この映画のオードリー・ヘップバーンはまさに奇跡だ。
それにしても中学生のまだ批判精神の発達していない時期に、「たとえ損であっても、自分の気持ちを抑えてやるべきことをやる」ことをよしとして感動的に描く映画を観てしまったら、その後の人生の節目節目でついつい「自分にとって損な選択肢をわざわざ選ぶ」ような心理的バイアスを刷り込まれてしまうのも仕方のない事だ。
あまりに有名なこの作品の内容についてあれこれ言うのも野暮というものだが、一つだけ。この映画は登場人物は本当の事を言う事を禁じられているわけで、全てのセリフは間接的にしか心情を表せない。そのため様々なディテールを効果的に見せる事でキャラクターの感情を表現するわけだが、それこそが映画だ!
御裁断は(最高☆5つ)
HERO
大変にもったいないのである。リー・リンチェイ、ドニー・イェン、マギー・チャン、チャン・ツィイーとアクションの出来る俳優を4人も揃えておいて、ちっとも手に汗握らん。この面子でアクション活劇をとらないなんんてどうかしている。チャン・イーモウめ、ぞろっとした衣装を着せて優雅にくるくる回しておけば、何も知らない毛唐が、「オウ、ワンダフール」とかいってもてはやしてくれるのを狙ったに違いない。ドラマがやりたかったのなら、それなりの俳優陣ってのがあろうものを。
シーン毎に衣装から何から色を全部変えるっていう趣向もこうなってくるとあざといだけである。それにそもそもこの映画、一つの物語りを三回別語りでやるという「羅生門」仕立である必要がよくわからん。こうすることで、本来のテーマであるところの「個人的な感情よりも全体の秩序維持の方が大義であり、個人は大義に準じることで英雄となる」がぼやけてしまったのではなかろうか。本来そこには大きな葛藤があって、その葛藤を乗り越えるからこその英雄であろうに。
御裁断は(最高☆5つ)
シモーヌ
アル・パチーノ扮する売れない映画監督が主演女優の降板で制作の危機に陥った作品をCG女優を使って完成させたら、その女優が大評判になってさあ大変、という話である。10年前ならCG女優であることを隠そうとするのもわからないではないのだが、このご時世フルCGの俳優が出てきたからって宣伝の惹句にもなりゃしないのではなかろか。なぜ隠す?
この非常に根本的な問題に目をつぶれば、芸術とビジネスの問題とか、真実は何かとか、お話を追うのをふっと忘れてしまうような話題が出てきて面白いと言えば面白い。のだが、映画ってのはテーマさえしっかりしていればいいと言うものじゃあないからねえ。この映画、さあ大変の部分をコメディにしようとしているわけだが笑えない。一ミリたりとも笑えない。そもそもアル・パチーノが主役と言うだけで笑えるはずがない。で、そのアル・パチーノがドタバタするのだが(頼むから口紅なんてやめてくれ)、「そんなわけあるかい」というギャグ続出で、もうなんとも笑えない。アンドリュー・ニコルさんよ。娯楽部分を軽視するなら映画なんて作らなきゃいいんだよ。それとも単に下手なだけか?
ウィノナ・ライダーが出ているのに出番が少なくってがっかり。リハビリか?
御裁断は(最高☆5つ)
ファム・ファタール
アメリカでは大変評判が悪かったそうだが、どうしてどうして、これはデ・パルマ印の大傑作ではないですか。スプリットスクリーン、スローモーション、カメラの覗き、曇りガラスの向こうで繰り広げられるエロシーン、偶然の出会い、全てがデ・パルマ的に完璧。ちょっとくらい自分とうり二つの女性と出会うと言うありえないような偶然があったっていいじゃないか。どうせ映画は作りもの。虚構性を華麗な映像で帳消しにしてくれるなら、それも一興だ。うっとり。
でも、それだけではない。私が今作で一番驚いたのは、お話を最終的にリリカルに落としたところ。こういう落とし方はデ・パルマの心の師であるところのヒッチコックは一度たりともしなかったわけで、いまだに彼をヒッチコックの亜流呼ばわりする向きはいったいどこをみているのやらだ。思えば「スネーク・アイズ」にしたって飄逸な雰囲気があったし、大愚作「ミッション・トゥ・マーズ」だって妙に感傷的だった。デ・パルマと言う監督は、登場人物のエモーションにはあまり頓着していないようだが、作品自体にはちゃんと感情的な要素が入っているのだ。決してテクニックだけの監督ではない。
最後に、この映画を観るなら極力前情報無しで見た方がいいんじゃないかと、この文章の存在意義が失われるような事を書いてみる。あともう一つ音楽について一言。あれなら、ボレロをそのまま使えばよかったような。。。
御裁断は(最高☆5つ)
呪怨2
一作目を見たあとで二作目が制作途中であると聞いて、「この映画の構造から考えたら、二作目って言ったって一作目と違う風には作れまい?」と思ったものだが、実際一作目と同じだった。とはいえ、これは焼き直しってのはちょっと違う。むしろ変奏曲といったほうがよさそうだ。つまり、最初から作り手は納得ずくで二作目にかかったのだろう。
私が一作目のどこに感じ入ったかと言うと、恐怖映画において観客が感情移入すべき対象(つまり全編通じて登場し悪と対決し勝利する主人公)を設定する事を拒絶し、一見ばらばらに見えるエピソードを淡々と繋いで行きながら、でも見るものを心胆寒からしめさせた事にある。そのための仕掛けであるエピソードの時系列入れ替えは今回も同じように行なわれている。しかし、一作目ではいろんな登場人物が芋づる式にあの家に関わって行ったのに対して、今回はたった一度のイベントでほとんどの登場人物が家と関わる事になる。そのため今回の伽椰子はクリスタルレイクに集まった若者を皆殺しにしたようなもので、怨みの連鎖のわけのわからなさに見終わってゾゾっとした前作のような怖さはあまりない。一作目と比べるとエピソードの拡がりにやや欠けると言えようか。
あまり怖くなかった理由には、伽椰子と俊雄のルックスに慣れたせいもあるのだろうけれど、それだけじゃなくトンガッタ部分が薄れた事もあるのかもしれない。前作では「親子の愛もへったくれもあるかい」だったのに、今作では母の幽霊が娘を助けるわ、のりピーはミニ伽椰子を抱きしめるわ。折角前作は私のハリウッド的アマアマ映画センスを打ち砕いてくれたと言うのに、これでは退行しているんじゃないか?
しかしなんでもいいが、これじゃあ「リング」のぱくりって言われても仕方がないんじゃないかしら。あと、のりピーより奥菜恵の方が演技うまいのね。
御裁断は(最高☆5つ)
10日間で男を上手にフル方法
10日間で男に振られようとするケイト・ハドソンと10日間で女をメロメロにさせようとする我らがへーががっぷり四つ。なのだが、胸に手を当てて自分の経験を思い出してみなはれ。くっつくのと別れるのとどっちが大変か。この勝負ハナから結末は見えている。
いや、もうどこからどうみたって数多あるラブコメの一つであって、キャッチコピーなんて「全ての女性を魅了する逆恋愛マニュアル」って、男性観客の事なんて1ミリも想定していない映画である事だ。まあ貧乳ケイト・ハドソンじゃあ引きとしては弱いかもと配給が考えるのもわからないでもないのだが。
しかし、そのケイト・ハドソンがいい!「あの頃ペニー・レインと」の時を思えば随分とうがたった気がせんでもないが、男の身勝手な幻想を演じていたときより、ずっと生き生きしていて見てて楽しい。一方へーは、「サラマンダー」なんてなかったかのようにいつものへーである。
どうでもいいが、世の中には私みたいに振り回されるのが大好きな人間もいるのだ。確かに、ああいうやりかたされるとうざったいのは確かなのだが、一方では餌くれてやってるようなものだぞ。まだまだ甘いな。
またまたどうでもいいがこの映画、女性陣は悪辣非道というかモラルのゆるんだ面子ばかりである事よ。相手を落とそうと画策するのは、賭けがなかろうが恋愛には多かれ少なかれつきまとうこと。一方、相手がこちらを嫌いになるよう仕向けようってのは、相手の気持ちを操作して、ある意味支配しようと言う事であるぞ。決して誉められない。まあケイト・ハドソンがかわいいので、見ているときはそのへんのことは全く気にならないんだけど。でも、編集長には腹が立ちましたね。そういえば、オチは「25年目のキス」と同じだ。
御裁断は(最高☆5つ)
パイレーツ・オブ・カリビアン 呪われた海賊たち
ディズニーで海賊と言うと、「黒ひげ大旋風」って小学校の体育館で見て面白かった記憶があるんだけど、あれは子供向けのコメディだったわけで、そりゃあ小学生には面白かろう。東京ディズニーランドでも「カリブの海賊」ってあんまり記憶に残ってないし、なんかジョニー・デップが主役のアクション娯楽大作って言われても、イマイチピンと来なかったわけですよ。それが、巷に流れる評判が思いの外よいものだから、ふらっと見てみたら大当たり。この役を振られたときのジョニー・デップのほくそ笑んだ顔が目に浮かぶようだ。
この曲者俳優が、まっとうな海賊を演じるとは思ってなかったが、それにしてもこの映画のジャック・スパロウ船長は「用心棒」の桑畑三十郎の役回り。ミフネの様であったっていいものを、よりによってオカマのネズミ男として演じていて、しかも、それがこの映画の魅力の半分以上を作り上げているのだから、たいしたものだといえよう。それだけじゃなくって、最後の最後、北を指さないコンパスを見るシーンなんて、もうすっかり誇り高い海賊船長。かっこいいじゃないか。感心したよ。
それにしてもこの映画、掟にとらわれている海賊の側もそれほど自由じゃない存在として描かれているのだが、最後には少しだけ解放される。総督や提督も法の逸脱を条件付きで認める立場になるし、ジェフリーラッシュ率いる呪われた海賊たちも結局は解放される。若者二人も心を打ち明けられるようになるし、猿以外はすべてキャラクターが変化することだなあ。つまり、我が手に少しの自由を、ってのがテーマということだ。まさに海賊映画。しかし、どうでもいいがジョニー・デップとオーランド・ブルームの最初の襲撃方法は「未来少年コナン」でも似たようなのがあったなあ。
キーラ・ナイトレイ嬢もいろいろ頑張っていたけど、オーランド・ブルームは割を食っちゃったね。ただの狂言回しになってしまっている。それに、チャンバラのシーン見てて思ったんだが、彼は体の動きが硬くないか?指輪では弓撃ってるだけだから気がつかなかったのかな。
御裁断は(最高☆5つ)
マイ・ビッグ・ファット・ウェディング
まあ、結婚式と言うのは多かれ少なかれいろんな事があって大変なもんだ。相手の家の習慣にこちらを適合させなきゃいけない事も多くて、最初はとにかく目が白黒する。特に、少し変わった人物が選ぶ相手と言うのは、やはり少し変わった人物である事が多いわけで、ということは相手の育った家庭環境も変わっている事が多く、つまりは変わり者と変わり者の正面衝突となる。常識って便利かも。
で、ギリシャが世界で最高であると信じて全ての言葉はギリシャ語に語源を持つというのが持論のオヤジ+大家族という悪夢のような家に育った行かず後家の結婚物語である。もう、ありえないってくらいに相手の男が立派な男でカルチャーギャップなど全く意に介さないので、お話がスムーズに運ぶのだが、現実にはもうちょっとひっかかりがあるだろうさ。少なくとも親はもう少し摩擦になるものだぞ。そういう意味で、この映画は大変地味な作りをしているが、立派なファンタジーである。
なんてのかな、ファンタジーだからさ、これを見て喜べるのは、結婚生活に幻想を抱いているか、または結婚生活にひどく幻滅しているかのどちらかだな。わたし?わたしの感想は「ギリシャ人とだけは結婚したくないね」ってとこかな。
どうでもいいが、この作品をラブストーリーとして宣伝しているのは、どうかと思うね。
御裁断は(最高☆5つ)
ターミネーター3
3作目を本当に見れる日が来るとは思わなかった。2作目のあの結末では続編の作りようが無いはずだし、3の企画は何度も何度も聞いたがそれきりだったし。しかし、できてみるとジョナサン・モストウが監督だと言う。このスケールダウン感のために、見る前の盛り上がりは皆無のまま劇場に足を運んだのだが。。。
これが面白かった。2作目で変な方向に流れて行ったお話をほとんど無かった事にして、見事に元の軌道に時間の流れを戻したのである。また、クレア・デーンズ演じる新キャラの導入によって、観客に感情移入のポイントを提供しているところもしっかりツボを押さえていると言える。そのうえパワフル演出つるべ打ちである。クレーン車のシーン、音楽が無くても迫力十分。満足だ。
しかし、2作目で狂った流れを元に戻し、そして決して手放しで喜べないエンディングを持つ3作目と言えば、「新・猿の惑星」である。とすれば、ターミネーターも4作目、5作目と作られて、そのうち機械と人間の和解が見られたり(それじゃマトリックスだ)、時間の流れのつじつまが合わなくなったり(もうすでに合わないか)するのだろうか。おっかなびっくり見てみたいような気がせんでもない。
今回のシュワちゃんは、前作と違って変に人間に媚びたところが無く、淡々と使命を果たして行くところがクールでかっこいい。やっぱロボットはそうでなくっちゃ。そんなロボットが二つの矛盾した指令のせいであたかも葛藤しているように見えるシーンはちょっと面白い。そんなところだけ人間臭さが出るのだな。
どうでもいいが、私はクレア・デーンズけっこう好きだったのである。なのに、今作の容色の衰えようはいったいどうしたことか。将来が危ぶまれる。
御裁断は(最高☆5つ)
チャーリーズ・エンジェル フル・スロットル
確かに、前作よりも出来が良くなっている。お話のテンポがよくなり、学芸会並のギャグも数が減り、あろうことかドリュー・バリモアには性格付けまで為されている。
しかし、どうもこの映画への巷の評判が理解できない。バカ映画にも一寸の志を求める私はもう古いのか?いや、ちょっと違うのかもしれない。私は、私と関係ないところで楽しそうにしている女性グループが気にくわないという、単にそういう了見の狭い人間なのかもしれない。いや、それもやはり違う。「私たちは楽しいんだから、見ているお客も楽しい」ということに一点の疑問も抱いていない点に、私はいらだちを覚えるのだ。
前回のビル・マレーに続いて今回はジョン・クリースがムダ遣いされている。クリスピン・グローバーも何しに出てきたのかよくわからないし、新しいボズレーは最悪である。ジャージャー・ビンクスもかくやというくらい最悪である。デミ・ムーアも遠めに見ている分にはいいが、アップになると見てられないし。それは三人娘も同じか。
やっぱり、この映画への巷の評判は理解できない。
御裁断は(最高☆5つ)
メラニーは行く!
リース・ウィザースプーン主演だし、タイトルを見ると「キューティー・ブロンド」のようなイケイケドンドン能天気コメディを期待するのだが、実際はもちょっとシリアス度が高い作品であった。
しかし、このシリアスな度合いと言うのがどうにもこうにも見ているこちらのノリを削ぐ。一応コメディとして作られているが、ほとんど笑えない(アラバマの田舎度合についての常識を持ち合わせていれば別かもしれんが、あいにく私は日本人)。折角のリース・ウィザースプーンなのに宝の持ち腐れである。シチュエーションから考えればもうちょっとドタバタにできるはずなのに、すぐにハートウォーミングな方向に持って行かれてしまい、しおしお。また、うかつにリース・ウィザースプーンが上手いものでそれなりにドラマになっちゃうんだよねえ。
まあ、結婚を前にしてやっぱ別の人が好きかもって話は世の男女を問わずあるようだが、今作みたいに全く欠点のかけらも無い人間を相手にして逡巡するってのは贅沢の極み。「まあ素敵うっとり」なんて女性が現われたら困るなあとちらと思ったが、この作品話題にもなっていないようなので不問に付そう。
しかし、リース・ウィザースプーンがなぜ逡巡するか動機づけが弱すぎるのは問題だなあ。「やっぱ故郷はいいや」っていうだけじゃちょっと。
御裁断は(最高☆5つ)
ソラリス
タルコフスキーの「惑星ソラリス」のリメイクである。私は「惑星ソラリス」は中学生ぐらいの頃にテレビの深夜放送でズタズタに切られたバージョンを見ただけである。であるが、現実よりもマトリックスの方を選んだサイファーを主人公にしたかのような今回の「ソラリス」とは随分違う映画だったような気がする。
で、その「ソラリス」だが、極めて退屈である。あまりに退屈でこちらの気力も奪われてしまい怒る気にもならない。ソダーバーグが作るSF映画を見に行ってしまった私が悪いのだから怒るのも筋違いかもしれんし。ソラリス上空の宇宙ステーションが映ってから以降はずっと心の中で「私が悪うございました」と許しを請うていたのだが最後まで許されなかった。
神妙な顔したジョージ・クルーニーの苦悩は上滑りし、ナターシャ・マケルホーンの行動はみな唐突で、サスペンスなはずのプロットは放置されたままだし、だいたい死んだヨメサンが現われて最初の反応が宇宙に放り出す事で、2番目の反応が相手を人間扱いする事だっていうのは、逆さまでしょうが。さっぱり理解できん。とんでもない事態が目の前に起きてるわけですよ。科学者の端くれとして原因を究明したいとちらりとも思わんですか。科学なんて知らんですか?そーですか。
オーシャンズ11でも思ったが、どうもソダーバーグの映画からは訴えかけてくるものが読み取れないのだなあ。彼は一体何に突き動かされて映画を撮っているのやら。
御裁断は(最高☆5つ)
マトリックス リローデッド
長い長いながーーーい予告編である。
先行ロードショーを観た直後の今の感想は、「正直言ってこういうのを蛇足と言うのではないか?」というものである。一作目のマトリックスはあまりにも完成されていて、今作のように良く言えば単なるスケールアップ、悪く言えば小難しい言葉と最新の映像技術で飾り立てただけに過ぎないような作品を提示しても、前作の衝撃には足下にも及ばない。こういう商売ならやらなきゃいいのに。マトリックス後の世界では、いくらエージェント・スミスが100人になってカメラがぐるぐる飛び回ろうと、あくまで想像の範囲内なのだ。
また、私をして気持ちを萎えさせたのは100人のエージェント・スミスとの格闘シーンがCGだったこと、そのシーンにストーリー上の何の必然性も無かったこと、さらにそのシーンが不必要に長かったことだ。前作のバレットタイムやワイヤーワークは実写だったからこその驚きなのであって、今回のように素人の私が見てもCGとわかるようなシーンを入れてはいけないのではないか?そもそも、この作品は「マトリックス」であるぞ。ストーリー上の必然性が無く、見た目が派手だと言うだけのシーンを作るためにCGに頼るというのは、やってて気持ちが悪くないか?
他にも、アリーヤさんがやるはずだったと言うザイオンでのシーンにあんなに時間を割くぐらいだったら、新しい敵の白い双子の憎々しさをもっと描いておけとか(かっこよさげなのに、これでは単なるやられキャラである)、ザイオンの船の一隻が敵に襲われるシーンが唐突だとか、全体の構成に荒さが散見される。いや、もちろん今回見たのは長い予告編であるから、この感想が当を得ているのかどうかは11月を待たないと判断つかないのだが。
御裁断は(最高☆5つ)
サラマンダー
近未来の竜退治話に「サラマンダー」というタイトルがついているところで、気づくべきだったのだ。開巻「東宝東和75周年記念作品」とドドーンと出てきたときにゃあ、ひっくりかえった。いや、しかし東宝東和も記念の作品にどうしてこんなB級な。。。いや、それでこそ東宝東和と言うべきかもしれん。あっぱれ東宝東和。
で、中身の方だが、古代から蘇った竜の群れが人類を滅ぼす、ってのはギャオスだよなあ。設定を聞けばボンクラ映画ファンの胸はいやおうなく高まるのだが、いざ映画が始まって見ると文明壊滅シーンはあっさり流され、トマトを収穫するのしないのが始まってムムム。それでもマシュー・マコナヘー率いるケンタッキー義勇軍が出てきてスカイダイビングで竜退治するシーンには盛り上がろうものだが、最後の人類の命運を賭けた竜との戦いのショボクレ度合いにはなんともかんとも。これが東宝東和色といえば、その通りなんだが。
それはともかくとして、この映画の最大の見どころと言えばマシュー・マコナヘーでしょう。我が家では、良い人なんだがボンヤリした役の多い彼のことを、常日ごろから「ヘー」と呼んでいるのだが、今回全くヘーらしくない。筋骨隆々・ハゲ・ヒゲ・短足・レッドネックである。さわやかとかハンサムとか育ちがよいとかと対極である。どうした、ヘー。がんばれ、へー。それいけ、へー。しかし、どうでもいいがへーの「ドラゴンと言ってもただの生き物だ。生き物なら殺せる」というセリフはアメリカの兵隊さんに抱くイメージにぴったり寄り添ったものであることよ。
今回のヘーが「ジョーズ」のクイント船長だとすれば、ブロディ署長にはクリスチャン・ベイル。これもパブリック・イメージと全く逆のキャスティングだ。それにしても善人のクリスチャン・ベイルって希釈したトム・クルーズみたいなのな。
結論としてはこの作品、何も知らずに暇つぶしで借りてきたビデオでたまたま見たというのだったら楽しめるだろうスケール感であった。いかにも東宝東和だ。
御裁断は(最高☆5つ)
X-メン2
今回の論功行賞をするならば、ミスティーク8割、マグニートー1割の、ナイトクローラー7分にして、ストーム3分ってとこか。前作の正義の側はほとんど活躍しなかったと言う。主役のはずのウルヴァリンなんて本筋のまわりをウロチョロするだけの存在に後退しちゃっている。今回の主役はストライカーだよなあ。
ジグソーパズルをすると、ピースがピタッとはまった時の気持ち良さってのがあるわけだが、いろんな特殊能力持った人たちがその能力を組み合わせてミッションを遂行していくお話にも、似たような気持ち良さがあるみたい。おお、そこでこいつの能力が!とか考えながら見ていると飽きない。
しかし、この映画のテーマであるところの、全ての人を受け入れて共存すると言うのは、私に言わせればどだい無理な話である。思うに、人には心地よいと感じられる集団の規模ってのがあって、ある程度までの人数までなら共存できるが、それ以上になると相手が誰であれ、排他的に振る舞ってしまうもんなんじゃなかろうか。私なんて、5人以上の集団の中にいるのはとても居心地が悪い。であるからして、全ての人との共存はあきらめて、閉じた小集団の中で暮らせばいいんじゃないかと思うのだけど、それって後ろ向きなんですかねえ。
御裁断は(最高☆5つ)
ドリームキャッチャー
少年のときの体験がもとで超能力を身に付けてしまい、そのために社会と距離感を感じるようになった4人の幼なじみが、雪の降る山小屋に閉じ込められて、というスティーブン・キング原作の映画。と聞けば、ミニマルな状況下のホラーかノスタルジー溢れる感動作のどちらか、もしくは両方だと思うよなあ。そんなわけで、あのミスターが突然現れたときは、椅子からずり落ちるくらいに驚いた。で、そこから後は、もうボンクラ映画ファン大喜びの話の運びで大満足。
しかし、ミスターの登場以降はずーっと口をポッカリ開けて見ていたので気にならなかったが、冷静になって考えてみると大概いい加減だぞ、このお話。なにげに堅実なキャストで監督もローレンスキャスダンだから大作然としているが、B級の連中に作らせたらきっと目も当てられんものになっていたに違いない。私はボンクラだから、そういうのもちょっと見てみたい気がするが。まあとにかく、スティーブン・キングものはきっちり資金と労力をかけて作ったほうがいいという好例ですな。
プロットにずいぶんと省略されている部分があることは見ていてすぐわかる。で、何冊かスティーブン・キングものを読んでいれば、省略されている部分は映画に輪をかけて面白かろうということが容易に推察されるので、すぐにアマゾンで原作を注文した。そしたら、文庫本4冊だ。しかも、この話のスケール。個々のプロットを丁寧に説明している暇はないということを納得。というか、よく破綻なく二時間強に収めたものだ。
それから、主人公の心の中で起こっていることをあんな風に映像化してきたのには感心した。ところで、同時上映の「アニマトリックス ファイナル・フライト・オブ・オシリス」は単なるオリジナルの焼き直しで、がっかりした。こんな商売やめときゃいいのに。
御裁断は(最高☆5つ)
ボウリング・フォー・コロンバイン
生態学では、生物を生産者と消費者に分ける事がある。生産者は非生物から栄養を合成する事の出来る生物、消費者は他の生物から栄養を奪う事で生きる生物である。価値を創造するものと、それを奪うものだと言える。人間の社会でも、この分け方が可能かもしれない。農耕民vs狩猟採集民?武士・貴族vs農民?資本家vs労働者?銀行vs市民?先進国vs発展途上国?
そう考えると、暴力(ハードパワー)を行使して人から収奪する事と、もっとソフトな力(経済力だったり、ひょっとしたらマスコミの力だったり)を行使して人から収奪する事との間に親和性が高いのも納得がいく。マリリン・マンソンは鋭いところをついているわけだ(この映画で一番かっこよかったのが彼だというのは、この作品のテーマを伝えると言う点での技量の高さを物語っている)。結局のところ、銃の問題は、額に汗する事なく巨万の富を得ようとするものたちによる社会操作に起因していると言うのが、この作品の中心的テーマであろう。その意味で、チャールトン・ヘストンは実は問題ではない。たかが無邪気な俳優である。衰えた後ろ姿が、そのことを雄弁に物語っているように思う。チャールトン・ヘストンのシークエンスは、ある種の娯楽性、わかりやすい敵を作るために組み込まれているのだろう(このやり方は、ちょっと危険だとも思うが)。一方、サウスパークの作者の話は、アメリカの高校事情をかいま見れて「うわ、また悪夢のハイスクール生活の話か」と面白かったが、でも、全体のテーマからすると少しピンボケだろう。コロンバイン高校の件には当てはまるかもしれないけれども。
この映画は、アメリカ社会の問題と病理を、銃問題と言う切り口で、シニカルで鋭い視点から暴こうとする緻密に計算されたドキュメンタリーである。一部の宣伝にあるように、アポ無し突撃取材といったハプニングの面白さを追及しているのでは決してない。あくまで真面目な作品であって、その訴えてくるものは痛いほどで、私などは見ていてとても重かった。
しかし、映画館の中には呵々大笑している人たちがいた。おそらく西洋人だと思うが、どこの国から来た人たちなのか、とても気になった。まさか、アメリカ人ではないと思いたいが。。
御裁断は(最高☆5つ)
ネメシス S.T.X
日本では売れないと踏んだか、大々的に宣伝されてはいないがスタートレックニュージェネレーションの映画版。このシリーズ、前作のあまりのひどい出来にもう二度と見るもんかと思っていたのに、なんというか気がつくと劇場に来てしまうと言うのは、サガですなあ。いや、でも今度こそその誓い破るまじ。
もともと、私はオリジナルストーリーのファンで、ニュージェネレーションは、登場人物達のべたべたした人間関係がどうも好きになれなくって、テレビ版も実はちゃんと見ていない(映画版は最初の頃面白かったので、うかつに見続けているのだ)。なんかさあ、連邦の宇宙戦艦の乗組員がカウンセラーを必要とするウジウジした人たちって興醒めじゃないっすか?違いますか?
それが、今回はいきなりライカーとトロイの結婚式である。そういえば前作でもなんだか鼻の下を延ばした副長だった事よ。あろうことか、ベッドシーンですぞ、ベッドシーン。清く正しい宇宙SFはいったいどこへ?!
と、のっけからしおしおで、白状するが途中でうとうとしてしまった。にもかかわらずもっと悪口言うけど、そんな映画のクライマックスがエンタープライズの特攻ってどうなの?これまでも、エンタープライズは何度も沈んでるし、スポックなんて一度死んで復活までしてるさね。今更体当たりくらいじゃあ、こちらの目も覚めませんで。
ロン・パールマンも報われない事だ
御裁断は(最高☆5つ)
シカゴ
クローサー
キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン
ここ何作かのスピルバーグ作品の中では、最も安心できる仕上がりだと言えよう。明るいトーンの作品なのだが、コメディではない。スピルバーグの作るコメディの質はお世辞にも高くないので(というか、スピルバーグの繰り出すギャグはお寒いものがほとんどだ)お客としては、これは大変歓迎すべき事である。スピルバーグの最大の武器はその子供っぽさなので、このちょっとファンタジーっぽいお話(実話だというのに驚かされるが)はおあつらえ向きの素材なのだろう。
レオ様の父親クリストファー・ウォーケンとレオ様を追っかけるFBI役のトム・ハンクス(疑似父親的役回りを演じる)がいずれもよい。登場する女性に魅力がないのもいつもの通り。オープニングクレジットは60年代の映画風で好感度大。
それにしても、このお話で一番タチが悪いのはどう考えても母親だぞ。一体、何を考えているんだか。まさか、今のアメリカ人のフランス嫌いを先取りしていたわけでもあるまいに。
御裁断は(最高☆5つ)
呪怨
いや、傑作だった。日本の恐怖映画がここまでの水準に達するとは正直予想していなかった。この作品は一言で言えば呪いのグランドホテルであって、観客のエモーショナルな部分をつかまなくては成立しえない恐怖映画において、直線的・主観的構成ではなく平面的構成をっている点がユニークである。そして、そのユニークさとホラーとしての娯楽性が両立しているのが素晴らしい(惜しむらくはギャグつるべ打ちに見えてしまう予告編である。あれを見ていなければ肝心なシーンで吹き出す事も無かったろうにと返す返すも残念だ)。緻密な構成、意表を突く展開、そしてある意味調和の取れた結末。どこをとってもキズ一つ無い。これを見ると映画版のリングなどとても陳腐な作品に思える(強引に解釈すると、今作はリングの再解釈だといえない事もないが)。恐怖映画嫌いに勧める事ができないのがとても残念。
しかし、これも黒沢清(今作では監修もやっている)や中田秀夫たちの蓄積のおかげといえよう。これらのおかげで日本では恐怖映画ならある程度のヒットが見込める状況ができたわけで、優秀な作家に自由に映画を作らせるという冒険が可能になったわけだ。ジャンルの繁栄というのはこのようにして生じることだ。
女優さん達も目を引きつけられる魅力的な人たちばかりで、そういう意味でも娯楽性アリである。娯楽性といっても男性向けだが、そもそも女性の多くはこの作品は苦手とするところだろうから、まあかまわないだろう。あたしゃ、いづみ役の上原美佐にクラクラ。このシークエンスで、父と娘の愛情が事態を打開するなんてハリウッド的アマアマなオチを一瞬でも想像した私はダメ子ちゃんである。これからは心を入れ替えて映画鑑賞に臨まなければ置いていかれてしまいそうだ。肝に銘じよう。
ところで、メイク協力DHC?メイク協力DHC?メイク協力DHC???つまりそれってあの白塗りが。。。?
御裁断は(最高☆5つ)
007 ダイ・アナザー・デイ
007二十作目の敵は北朝鮮。このご時世なんだか気楽に楽しめないよなあと思っていたら、北朝鮮かどうかなんてお話上全然関係なくって楽しめた。
今回の何が肝かって言うとやはりボンドがつかまってしまい14カ月も拷問を受けたというところ。ひげ面で髪ボウボウ、うつろな目で拷問に耐え死を覚悟したボンドなんてこれまでいたろうか。マドンナの主題歌といい、タキシード野郎の方がタトゥー野郎より新機軸を取り入れるのにずっと積極的であると言うのもひいき目だけからではない(でも、あたしにゃ今回の主題歌はイマイチだな)。
このオープニングから香港を経由してキューバに乗り込むまでは快調至極。ボンド映画とは思えないタイトな構成とテンポで引っ張っていく。まあ、ここまでできたら上等で、これ以上やるとボンド映画でなくなってしまう。というわけで、タキシードに着替えた後はお馴染みのゆるゆるストーリーになっていく。後半なんて氷のホテルから逃げだしたと思ったら舞い戻ると言うのを二回も繰り返してくれたわい。
で、史上最強のボンドガール、ハル・ベリーだが、そのスマートな活躍ぶりが、状況がどうあろうと力任せにぶち壊して回るボンドと対比させることで引き立つ仕掛けである。儲け役ではあるが、ピンでスピンオフを作ろうってのは調子に乗りすぎだと思うぞ。
でまあ、マネーペニーのシーンなど昔からのボンド映画ファンへの目配せもたっぷりで、よいんじゃないでしょうか。
御裁断は(最高☆5つ)
戦場のピアニスト
ロマンポランスキー作品の登場人物は決定的に無力であって、状況に翻弄され右往左往するばかりである。実話物の本作もきっちりそのフォーマットにのっている。
ワルシャワのユダヤ人ピアニストがドイツ侵攻からソ連による解放に至るまでどのように生き延びたかを描く話。どのようにといっても、数多くの偶然のなせるわざとしか言いようが無いのだが、これが現実と言うものなのだろう。特段何かを指弾するわけでも無く、淡々とドラマが進行する二時間半である。
それにしても、50万人もいたユダヤ人がほとんど抵抗らしい抵抗も示さずに皆殺しにされたわけである。よくぞそんなことが可能であったものだと思うが、これはメディアが未発達で情報のコントロールが現代よりずっと容易だった時代だったからこそ起こった事なのだろうか。それとも、今の世の中でも意志を持って事に当たれば、事態は再現されてしまうのだろうか。
御裁断は(最高☆5つ)
猟奇的な彼女
私など、良く言えば自由奔放、悪く言えばわがまま放題のかわいい女の子に振り回されるのが大の好物である。今でこそちょこんと家庭に収まっているが、若い頃は嬉々として、朝には海の底から龍の玉を拾い、夕べには断崖絶壁に咲く一輪の花を摘んでいたものだ(まあ、結局は全部振られちゃったわけだけど)。
そんな私だから、「あと40分で来ないと殺す」とか言われた日にゃあもうクラクラ。いや正直言うと、四半世紀前くらいのアイドル映画かと見まごう前半戦には「ちょっとどうなのよ、これ?」と思ったものだが、後半戦に入ってハイヒールを交換させられた辺りからもう面白いようにこちらのツボをついてくるシーンの連続。一瞬「げ、これってファンタスティック系だったのか?」と姿勢を崩された後で、驚天動地(前半戦ですっかり油断していた当方にはまったく思いもつかなかったんだよ)の着地を見せられては参りましたと言うしかない。もっと軽快に作れたはずだとか、こんな上滑りのギャグでコメディーを標榜していいのかとか、洗練さのかけらも無い演出だとか、そんなことはもうどうでもいい。
いやしかし、洗練されていないことはこの映画の短所ではないのだ。こんな不器用な恋愛模様を描くのに洗練は似合わない。出会って100日経っても何にも起こらない純情カップル。現代の日本に住むものの目から見ればまるでファンタジー・絵空事のように思えるかもしれないが、ちょっと待ってくれ、30年ほど前までは日本だってこんなもんだったじゃないか。で、この映画で描かれているように、人はそんな不器用な生活でも十分幸せで、いや幸せという言葉がピッタリでないにしても、少なくとも「生きている」喜びが感じられるように思う。それに比べて、私たちは洗練されたように見えていても、実は一度手に入れた幸せを失ってしまって、どうしたらいいのか分からなくなっているのではないかと思ってしまう。後戻りこそが今必要なのでは、と韓国映画を観ると良く思う。
どうでもいいが、やはり私も東洋人。同じ東アジアの同胞には感情移入できる度合いが違う。ここ長崎では地理的な要因のせいか、アジアの映画は比較的マイナーなものでも公開されることが多い(ハリウッド映画はほとんど大作しかかからないので、本作品もきっと公開されないに違いないとハナから決めてかかっていた)。ちょっと嬉しいかも。
御裁断は(最高☆5つ)
ロード・オブ・ザ・リング:二つの塔
この作品、前作を見ていない人を完全に置いてけぼりにしている。もちろん、いい意味で。
のっけからガンダルフとバルログの戦いから始まって、もうキャラクター紹介もこれまでの説明も全部省略して三時間みっちりと3つに別れた旅の仲間の話を描き続ける。三作分一気に撮影したことから予想されるように、作品の雰囲気は一作目と完全に調和が取れており、お客はスムーズに指輪の世界に入っていけ、そのうえ休み無く続く見せ場見せ場見せ場。満腹である。
ところで、いろんなインタビューでスタッフ・キャストが「ゴラムが凄い、ゴラムが凄い」と言い募っているのを読んでいたのだが、こちらもスレた映画ファンである。「ん?フルCGキャラ?ジャージャーのこと?ドビーってのもいたねえ」なんて斜に構えていた。しかしあたしゃ不明を恥じるよ。ゴラムは凄い。いや、まじで。目がくぎ付けになる。さすがはピー・ジャク。伊達に私と誕生日が同じではないな。
基本的に本作で褒めるべきところは前作と同じなのであまり繰り返さないが、人の心に巣くう闇をしっかり描いているところがこの映画の深みであり格調であり本質である。こういう部分を描くからこそ、「ダーク」と称されるのに値するのであって(スターウォーズでもちゃんとそうなってるじゃないか)、どこかのママゴト魔法使いファンタジーのように、おどろおどろしいものや危険なシーンを描いたことをもって「ダーク」だというなんてちゃんちゃらおかしいということが良く分かる。
まあ、結論としては、つまり不満は無いということだ。あ、それから見る前にDVDのエクステンディッドエディションで予習していくと面白さ増量だよ。
で、ここからは余談だが、予習している時に「なんだよ、これって鉄・火の文化と木・水の文化の戦いの話じゃないか」と気がついた。で、二作目でもそれはよりあからさまにされているのだが、文化をこの二つのタイプに分類するやり方は、環境史とかを見ているとお馴染のもので(狩猟・略奪型文化と農耕・循環型文化とも言える)、後者を正義として描くというのは、なんとも今風というか。しかし、そもそもこの二分法って、まさかトールキンが起源じゃなかろうけど、じゃあ一体誰が最初に言いだしたんだろう、とふと思った。
御裁断は(最高☆5つ)
ボーン・アイデンティティ
あっしは一週間前に同じマンションの一階から三階に引越しをしたのです。間取りはほとんど同じ新居なんだが、いくつか微妙に異なるところがあって、玄関のドアノブが左右逆についていたりする。で、体に染みついた記憶というのは厄介で、いまだに朝慌てて家を出ようとすると、手を伸ばした先にドアノブが無くって戸惑ってしまうのですな。
この映画はそういう話で(大分とスケールが違うが)記憶をなくしたCIAエージェントのジェイソン・ボーンが、体に染みついたスパイ技術を駆使して、失われたアイデンティティーを探し求めるという。スパイの本場ヨーロッパでの全編ロケとシャッキリした演出、決して美人とは言えないフランカ・ポテンテが醸し出すリアリズムがあいまってアクションサスペンスとしては一級の仕上がりになっている。面白いよ、この映画。
原作は、ロバート・ラドラムの「暗殺者」。こう見えてもわたくし国際謀略小説に一時期はまっていまして、フォーサイスやら何やら読みふけっていました。で、ラドラムも当然ながらいろいろ読んでたのですが、その最高傑作と誉れの高い「暗殺者」は何故か持っているのに読んでいない。今から本棚の文庫の山から探しだして読もうかしら。
ラドラムの小説は、リアリズム重視の国際謀略小説群の中ではケレン味たっぷりのほうで、一つ間違えば荒唐無稽に落ちてしまいそうな骨格のストーリーの一方、全編を貫くトーンや結末は苦く暗いという奇妙なバランスが独特の味わい。映画の方はどうかというと、ケレン味の方はビジュアルにするのが難しく、落ちの方はハリウッド映画だし。知らずに観てこれがラドラム原作の映画化だと見分けるのは難しいだろうなあ
御裁断は(最高☆5つ)
ハリー・ポッターと秘密の部屋
スパイダー・パニック!
化学廃棄物の汚染のために巨大化したクモの群れがアメリカの田舎町を襲う!という、まあ、なんというか、ハリウッドB級映画をこよなく愛するクモ学者たる私のために作られた映画のようである事だ。世界広しといえども、私くらいにこの映画の観客としてふさわしいものはそうそうおるまい。
で、こんなマニアな映画は九州の片田舎ではきっと上映してもらえんだろうなあと思っていたら、たまたま正月公開だったので帰省中のスケジュールを無理矢理こじ開けて大阪は動物園前で見る事が出来た。これも何かのお導きに違いないと思うことにしよう。いや、私がこの映画をスルーするなんて、お天道さまに申し開きが出来ねえってもんだ。
で、CGのクモがわんさか出てくるのである。労力かけて作った一台の巨大怪物とのっそり戦う昔懐かしの怪物パニック映画とはちょっと違う。エイリアン2とかスターシップ・トルゥーパーズと、トレマーズをかけてルートを取った感じ。ハリウッドB級映画マニアの心はそれなりに満足させてもらえる。オープニングとエンディングの処理もお約束だし。一方で、クモも一種類だけではなく、ハエトリグモとかトタテグモなんかもきっちりそれらしく描かれている。クモ学者の心も一応満足である(コガネグモが走り回って餌を取ったりするのはご愛嬌だ)。
満足なんだが、どうも全体としての高揚感に欠けるというか、「あーアホな映画が観れて幸せえ」っていう気持ちになれないのはどういうわけか?登場人物が多すぎて散漫になったせいか、はたまたデヴィッド・アークエットの顔がふざけた映画であるという印象を与えすぎているせいか?やはりB級映画はコストをかけずに見るに限るという事か。。。
御裁断は(最高☆5つ)
ギャング・オブ・ニューヨーク
どうにも構成が悪いような気がする。アイルランド移民と在来住民の対立を背景とした復讐劇だとばっかり思っていたが、それは前半のみ。後半は、なんだかわからないが選挙して徴兵制反対の暴動が起こってぐちゃぐちゃの中で終わってしまう。リーアム・ニーソンとダニエル・デイ=ルイスの絡みをちゃんと前半で絵にしていないものだから、レオ様との因縁も今ひとつこちらの心を打たない。キャメロン・ディアスもちゃんとダニエル・デイ=ルイスと濃ゆいシーンをやっといてくれんもんだから、後半に入って全く存在意義を無くしてしまっている。総じて無用に長い三時間。
しかし、どうでもいいが、この町の経済はいったいどのように成り立っているのかしらん。まるで町の住民全てがギャングで、火事場から盗んだと思う間もなくゆすり取られたり上納されたりし、かと思うとそれがボスの気まぐれで還流されたのもつかの間、掏り取られるわけだ。どう考えても悪人同士で取ったり取られたりしているようにしか思えん。これは高度に進んだ資本主義社会のパロディなのか?(そんなわけはない)
まあ、映画らしい映画というか大作らしい作品を見たという満腹感は得られるのかもしれない。この功績はほとんどダニエル・デイ=ルイスのものであるので、ただのレオ様好きは見てもしょうがないかもしれんけど。そういえば、キャメロン・ディアスとの濡れ場をダニエル・デイ=ルイスに見つかるシーン、一瞬年増の娼婦がベッドに寝ているのかと思ったよ。レオ様太りすぎじゃないの?
この映画、911テロのせいで公開が一年ほど伸びたと聞くが、なんでそんなことになったのか理由がさっぱりわからん。まさか、最後のあのカットをデジタル処理で消したくないからという理由だけで、一年公開を見合わせたとも思えんし。
御裁断は(最高☆5つ)
マイノリティ・レポート
タイトルに偽りありじゃないだろうか、このお話。
予告編を見ている限りだと、トム君が追われる殺人事件に少数報告が関係していて、その謎を解く中で少数報告絡みの過去の事件・陰謀が明らかになっていく物だと思っていたが、このどちらとも少数報告は関係なく、それだけではなく、どのプロットとも関連がなかったのだ。まあ、短編の脚色だからいいといえばいいのだけど
予言された殺人犯を犯行前に逮捕する、という設定はある種のタイムパラドックスを産みだすのであることだ。今回の場合、あの予言が無ければトム君はあの場所に行かなかったろうということで、予言は本当の意味でのタイムトラベルではないにしろ、情報を過去に送っているといえることだなあ。
この映画、スピルバーグの作品にしては、冗長である。タイトなSFサスペンスになりうる素材に、どういうわけだか息子をなくした父の気持ちというサブプロットが混じり込んで、散漫な印象になってしまった。ピーター・ストウメアーのシークエンスなどまったくもって不必要であることだ。トム君的には大物になりすぎてしまって、今更SFの小品には出られないってところか。ジェスチャーで操作するディスプレイや個人特定型広告などガジェットには面白いところが一杯あったというのに、もったいない。
御裁断は(最高☆5つ)
ジョンQ ー最後の決断
「トレーニング・デイ」のあのデンゼルちゃんはどこへ行ったの?
今作は息子が心臓の病で移植手術を受けないと余命幾ばくもないというのに、保険制度の不備で手術費を用立てることができずに病院に冷たくあしらわれ、困った父が病院に人質を取って立てこもる話。「狼たちの午後」のような反権力性を想像して劇場に足を運んだ私が悪かった。これはデンゼルちゃん主演の映画だったのだ。熱く正しい男、復活です。途中から設定の面白みが失われ、逆にどんどん子を思う父の愛というテーマが、デンゼルちゃんの熱さによって突出してきます。どうなることかと思っていたら、最後はご都合主義の極みでオチとなります。監督さんも、さすがにこのオチはまずいと思ったのか、そこにつながるプロットを可能な限り早いうちから提示しているわけですが、それで謗りを免れられるかというとさにあらず。
やっぱりこの話を、親子の強い愛に感動!なんてノリでまとめられてしまうとなんだかなあと思います。かの国の医療保険制度が弱者に厳しいらしいというのは、新聞で読んでなんとなく知ってはいましたが、この映画のようなことが本当に起こりうるのだとしたら、その制度は不備があるとしか言いようがない。だから、その不備をもっと強く指摘するべきで、この作品のような処理は単なる目くらましに見えてしまいます。
ところで、年金や高齢者医療はなくなってしまってもしかたないような気がしますが、助けられる若年者を助けるのは社会の責務じゃないんでしょうか。死に行く者は生まれ来るものに道を譲るべきだというのは、この世の真実だと思うのですがどうでしょう?
費用のことばっかり考えている病院理事長の不感症女に、これぞはまり役のアン・ヘシュ。デンゼルちゃんと対峙する昔かたぎの警部にロバート・デュバル。場をさらうにはちょっと年を取りすぎている感あり。その上司で「ハンニバル」のときと良く似たキャラクターのレイ・リオッタ。そして担当の心臓外科医にジェームズ・ウッズ。もう、きっとこいつが悪辣な医者に違いないと思ってみていたら、そうでもなくて拍子抜け。おいしいところをさらっていた。
ところで、私ならこの映画のオチはこうする、というのを思いついたのでお暇ならちょっと読んでつかあさい(多少ネタばれの感ありなので別ページにしておきます)
どうでもいいが、子供を持つというのは、ある意味で長期間にわたって人質を取られているようなものなのだなあ。どんなに幸せに暮らしていても、この映画のようなことが明日起こるかもしれないっていう不安を感じるのが、親ってものなのかなあ。これもどうでもいいことだが、世の親は「お前も親になれば私の気持ちがわかる」ということをよく言うわけだが、実際に親になるまでその気持ちがわからないのは幸いである。こういうのがあらかじめわかっていたら、その不安がいやで子供を持たない選択をする人たちが増えるに違いないことだ。
御裁断は(最高☆5つ)
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